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千葉のイチオシ
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チバビズドットコムのイチオシ。
千葉のオススメ名物・名所を紹介。
知られざる千葉がまだまだあります。

千葉のイチオシ バックナンバー(13~24)
落花生
落花生
  • ●千葉の落花生は日本一
千葉といえば、「落花生」しか無いと冗談をいわれるように、千葉県の落花生の生産高は、2016年のデータでおよそ12,300tと全国の生産高15,500tのおよそ80%を占めており、ダントツで1位を続けています。
落花生の花は咲いたあと、たった1日で枯れ落ちます。花が枯れてから一週間後に花と茎の間から子房柄(しぼうへい)というものが伸び、土に突き刺さり、その先端にさやができて落花生になります。「花が枯れ落ちて実が生まれる」ことから落花生という名前になったといわれています。
落花生の花
収穫時には3〜5株をひとまとめにして、根を上にして立てて畑で一週間ほど乾かします。このやり方を地干し(じぼし)といいます。その後円筒状に積み上げ、1〜2ヶ月間風に当ててじっくりと乾燥させます。この状態を「ぼっち」といい、雨よけとしてその上に藁(わら)をかぶせることから「藁ぼっち」といいます。今では藁ではなくブルーシートをかけることが多いようです。
落花生の新豆が出回るのが9月から11月、収穫して乾燥させない茹で落花生の品種は9月初旬から、その後、中生(なかて)品種のナカテユタカは10月中旬頃から、晩生(おくて)品種の千葉半立が11月初旬から店頭に並びます。
ぼっち
  • ●なぜ千葉県が落花生の産地になったのか
落花生は南米が原産で東南アジアを経て沖縄に入ってきたようです。沖縄ではかなり古くから栽培されていましたが、本州には入ってきませんでした。本州へは江戸時代に中国から入ってきましたが、その当時は栽培されませんでした。
千葉の落花生栽培の歴史は明治時代からです。当初は明治9年に、現在の山武市で栽培が始まりました。翌年明治10年に、県令(知事)の柴原和氏が鹿児島から種子を取り寄せ、現在の旭市で栽培を奨励したそうです。
当時の旭市周辺は「椿の海」と呼ばれた湖を干拓した砂地で、痩せた土地でした。そこでそのような土地に適した作物を探していたところ、白羽の矢が立ったのが落花生でした。
旭市で栽培された落花生は販売に尽力したこともあり、千葉県の落花生の生産地になりましたが、その頃の品種は干ばつに弱く収穫量が安定しなかったため、次第に生産量が少なくなっていきました。
一方、八街は干ばつの影響を受けにくく、収穫量が安定する品種を中国から仕入れて生産に成功しました。こうして落花生の生産地の中心が旭市から八街市に移っていきました。
●八街市が一番
江戸時代、現在の八街市など千葉県中部の内陸の地域は、生活用水の確保が難しいことから、集落はあまり形成されず原野となっていたため、「牧(まき)」という馬の放牧地になっていました。明治時代になって、牧は廃止され、政府は版籍奉還によって失業状態になってしまった士族に開墾を行わせるために牧の地域へ入植させました。
入植した元士族達は、開墾した土地で様々な作物の栽培を始めましたが、土地は富士山などの火山灰などが風で運ばれて降り積もった関東ローム層でしたが、干ばつに強い落花生は適していたので盛んに栽培されるようになりました。
昭和になり、千葉県は農業試験場での落花生研究に着手し、「千葉43号」の他2種を開発しました。特に「千葉43号」は、良質で栽培しやすく干ばつにも強いため、全国的に普及しました。
昭和16年に戦時体制に入ると、八街市の一部を除き落花生栽培は禁止されましたが、戦後昭和21年から再び栽培が始まりました。特に栄養価の高い食品としての価値が高まり、売れ行きが伸びたために価格が暴騰し、八街市を中心とした地域でも生産が急速に伸びました。更に優良品種の「千葉半立」が育成されたことで、全県に渡って栽培されるようになりました。
こうして千葉の落花生は、八街市を中心に全国一位の生産地として、また千葉の名産としてその地位を保っています。
八街の碑
(2018/11/9)
利根川
利根川
  • ●利根川の大改修
利根川は、新潟県と群馬県の境の大水上山(おおみなかみやま)を水源に太平洋へ注ぐ河川で、昔は洪水や水害が多い日本三大暴れ川の一つとしても知られていました。また、利根川は坂東太郎、筑後川は筑紫二郎、吉野川は四国三郎の異名を持っていました。
徳川家康が豊臣秀吉に命ぜられ江戸に入府しましたが、当時の江戸にはたくさんの河川が流れ、洪水が多発し、大規模な治水事業を行わざるを得ない状況でした。そこで家康が関東代官頭の伊奈備前守忠次に大規模な治水・利水事業を命じて始まったのが、文禄3年(1591年)でした。それは江戸幕府創設前のことで徳川家康がまだ征夷大将軍に任ぜられる前でした。
当時の利根川は東京湾に流れていて、鬼怒川と小貝川が合流した常陸川が銚子から太平洋へ流れ出ていました。利根川を人工的に銚子へと流れるようにした「利根川東遷」と呼ばれた一連の事業は、元和七年(1621年)から承応三年(1654年)まで行われました。
昔と今の利根川
  • ●江戸を支えた利根川
幕府が利根川の東遷事業を行ったのは、江戸や利根川流域の水害対策としての治水工事と、仙台藩の伊達氏を仮想敵国とした江戸防衛のための大外堀として利用する軍事目的という説があります。
江戸幕府が開府して首都となった江戸の人口はどんどん増加し、100万人ともいわれる一大都市に成長しました。そのため人口をまかなうための食料供給が大きな問題でした。それを補うための新田の開発、街道や当時の物流の中心であった水運の整備が必要で、それを支える千葉県地域の役割は大きいものでした。
利根川東遷で水運が改善され、銚子から利根川を上り、関宿を通過し、開削された江戸川を通って江戸へと物資が運ばれるようになりました。遠く東北地方からの物資も、房総半島を回る太平洋の海路から利根川の水路を通るようになり、江戸への通過点の野田市関宿には関所が設けられました。関所があった付近には、関宿城を再現した千葉県立関宿城博物館が建てられ、当時の資料などが展示されています。
利根川と江戸川
関宿博物館と江戸時代の利根川、江戸川、東京湾
●利根川水運が今の千葉につながる
利根川を利用して物資を輸送していた代表的な船が高瀬舟です。この船は米俵に換算すると、大きい物で1,200俵、平均5〜600俵を積むことができ、船底が平らで浅瀬でも航行することができました。
船の物流が始まると、荷物を積み下ろしする河岸(かし)が発達しました。河岸の数は多い時で160箇所にものぼり、今も小江戸として当時の面影を残す佐原もその一つでした。
この水運の発達によって、米をはじめとした農産物、銚子から水揚げされる魚、銚子や野田の醤油、流山の白味醂、味噌、酒などの醸造品は千葉を代表する産物になっていきました。その後、鉄道輸送からトラック輸送、空の輸送へと変化してきましたが、大都市東京を支える様々な産業が根付いている千葉の基礎となったのは、江戸の大都市と利根川水運があったからでしょう。
関宿博物館と高瀬舟
当時の河岸と現在の利根川
(2018/10/10)
サツマイモ
サツマイモ
  • ●千葉はサツマイモの生産高第3位
サツマイモ(薩摩芋)の原産地は中南米とされ、日本へは中国を経て1600年頃に沖縄の宮古島、九州、本州の順に伝わったとされています。千葉県の平成28年度の統計では、103,500tと鹿児島、茨城についで第3位の生産高を誇っています。県内の主な産地は、香取市、成田市、多古町で、8月から翌年6月までの7月を除いたほぼ1年間収穫されています。旬は8月後半から4月までで、特に美味しいのは10月から1月までの時期です。
現在市場に出回っているサツマイモの種類は32種類で、一般的な食用のほか、でんぷん粉原料用、焼酎用などの用途等でも使われています。栽培は、地上部が繁茂すると雑草の発生をおさえるので、収穫時期まではほとんど手間がかかりません。根の養分吸収力が他の作物よりも強いので、風害に強く、干ばつ被害も少なく、温度条件さえ満たせば土質が悪くてもある程度の収量が期持でき、収穫期間が長く、豊凶差が少ない野菜です。
土のサツマイモ
  • ●サツマイモで飢饉を救う
1732年(享保17年)、冷夏により稲を食い荒らす害虫が大量発生し、大凶作となった享保の大飢饉が起きました。特に西日本では飢えと寒さで200万人以上の死者が出たといわれています。八代将軍徳川吉宗は、飢えに苦しむ農村を救うために江戸市中の米を買い上げ、被害の大きい西日本の農村へ送るという、緊急措置を実行しましたが、それが原因で、江戸市中の米の価格が5倍にまで急騰し、江戸の庶民が飢えに苦しむことになってしまいました。江戸の市中は、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して家屋などを破壊する「打ち壊し事件」が多発し大混乱が発生しました。
将軍からこの事態の収拾の命を受けた江戸町奉行大岡越前は、食糧危機から脱する解決策を儒学者・蘭学者であった青木昆陽に託しました。昆陽は凶作の対策について書かれた書物を読み漁り、飢饉の際に栽培する作物を徹底的に調べ上げた結果、甘藷(現在のサツマイモ)にたどり着きました。当時、甘藷は九州では栽培が始まっていましたが、江戸には知られていませんでした。1733年(享保18年)にサツマイモが持つ13の優れた効能を「蕃藷考」という書物を書きあげ、それを見た大岡越前が将軍に報告すると、将軍からは試作をするよう命が下りました。
●関東のサツマイモのふるさとは幕張?
飢饉対策として検討されたサツマイモは、1734年(享保19年)に幕府は馬加村(現千葉市幕張町)、江戸小石川の養生園(現小石川植物園)、上総豊海不動堂(現山武郡九十九里町)が甘藷試作地とされました。1735年(享保20年)には飢饉による餓死は深刻化し一刻も早い対策が急がれていました。同11月に3箇所の試作地のうち馬加村の甘藷が栽培に成功し、翌年にはその種芋から関東一帯で栽培が始まりました。1736年(元文元年)には昆陽は薩摩芋御用掛に任命され、その後元文4年(1739年)には御書物御用達となり、サツマイモ栽培からは離れましたが、青木昆陽はサツマイモの普及を図った功績で、甘藷先生と呼ばれていたそうです。
その後江戸時代1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に発生した天明の大飢饉では、サツマイモのおかげでたくさんの命が助かり、試作地だった馬加村では一人の餓死者も出さなかったことから、1846年(弘化3年)に古くからあった「権現様」秋葉神社の境内に「芋神様」昆陽神社として祭られました。
昆陽神社
また、神社付近の試作の地は1929年(昭和29年)に千葉県の指定史跡に認定され、記念碑が立てられています。
青木昆陽甘薯試作地
観光地「小江戸」として有名な埼玉県川越市名物のサツマイモ栽培の始まりも、1751年(寛延4年)に上総国(現在の市原市)から取り寄せた種芋が始まりでした。甘藷の試作地になった現在の幕張から花見川にかけての地域は、昭和30年代までは栽培の盛んな地域で、芋苗の供給地、千葉県産サツマイモのふるさとともいわれています。
(2018/9/10)
梨園
  • ●生産高一位の梨
千葉というと落花生のイメージが強く、他の農産物があまり取り上げられませんが、実は多数の農産物が国内生産量で上位を占めています。ただし、国内生産量一位のものはそれほど多くはありません。数少ない一位のひとつが梨です。
最新のデータではありませんが、平成28年(2016年)のデータでは、千葉県の梨の生産量は、32,700tと2位の茨城県24,800tに大きく差をつけて全国一位を誇っています。市町村別の統計では、生産量1位が白井市で18.8%、2位が市川市の16.8%で、ふなっしーで有名になった船橋の生産量は、実際には4位です。
生産量の表
千葉県の梨は、温暖な気候のため関東地方の中では最も早く梨が開花し、8月から9月にかけて収穫されます。東京にも近く、古くは江戸時代から千葉の梨は高い評価をされてきました。現在、県内で生産されている主な品種は、以下のような時期に収穫されています。
収穫時期
幸水・豊水
二十世紀・新高
  • ●なぜ千葉で梨が栽培されたか
梨は日本で栽培されている果物の中でもその歴史は古く、中国を原産とし、弥生時代から食べられていたといわれています。日本書紀には、梨の栽培が奨励されていたとの記述もあります。貴族の間では、儀式などに使われたり、和歌に詠まれたりと、日本人とは永い付き合いのある果物です。
千葉県で栽培が始まったのは江戸時代で、現在の市川市八幡地区の川上善六氏が美濃国大垣(現在の岐阜県)で技術を学び、持ちかえって栽培したのが最初だといわれています。幸いなことに、県北の台地は富士山の噴火などでできた関東ローム層で、水はけが良く梨の栽培に適していたため、江戸に出荷された梨はで高級品としてもてはやされました。これがきっかけで、千葉県内の産地は拡大していきました。
梨の定番品種の二十世紀は、鳥取が日本一の生産地ですが、その発祥は千葉県松戸市でした。明治27年(1898年)に松戸市在住の松戸覚之助氏が裏庭のゴミ捨て場に生えていた梨の木を発見し育てたものが始まりで、農学者の渡瀬寅次郎氏や池田伴親氏らが、「来る二十世紀には王座を成す梨になるだろう」ということから二十世紀と命名しました。
●梨を地域ブランドとして販売する
千葉県内にはいくつもの梨の生産地があり、そのうち3つの地域で地域団体登録商標を取得しています。地域団体登録商標とは、地域の名称と商品などの名称を一般的な文字で表示できる商標で、一定の範囲で知られているという事実を元に、事業協同組合、農業協同組合などの団体で取得する商標です。
千葉県内の梨は、市川が「梨」の文字を漢字とひらがなの使い分けで2種、白井市と船橋市もそれぞれ地域団体登録商標を取得し、地域ブランドとして差別化をはかっています。
商標名の表
梨の生産地では、果物としての販売のほか、材料として梨を使った和菓子、洋菓子、ワイン、ブランデー、ジュース、酢など様々な商品が開発されています。販売方法にも特徴があり、最盛期の梨の生産地付近では、たくさんの販売小屋を見かけます。それは、通常の農産物の販売ルートではなく、梨狩りや生産者による直売で販売されているからです。その量は、生産高の70%を占めているといわれています。小売店に置かれている梨は、店頭に並ぶ時に良い色になるように、青いうちに収穫しますが、直販している梨は木で熟してから収穫しているので、おいしさがまったく違うからです。
千葉の梨発祥の地、市川市を通る国道464号線の北総線大町駅付近は、通称「大町梨街道」と呼ばれ、道沿いに約50件の梨農家の直売所が軒を連ねています。また、八千代市では八千代市村上付近の国道16号の沿線に多く見られます。
江戸時代から続く千葉県の梨、これからが本格的に出回る季節です。千葉の美味しい恵みを是非味わってください。
新高の花
(2018/8/9)
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