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千葉のイチオシ
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チバビズドットコムのイチオシ。
千葉のオススメ名物・名所を紹介。
知られざる千葉がまだまだあります。

千葉のイチオシ バックナンバー(13~24)
千葉の花
千葉の花
  • ●千葉の花の歴史
千葉県は日本列島のほぼ中央に位置し、東西約100km、南北約134km、太平洋と東京湾に囲まれた冬暖かく夏涼しい海洋性の温暖な気候です。特に南房総沿岸は、沖合いを流れる暖流(黒潮)の影響を受け、冬でもほとんど霜が降りません。
温暖な気候を背景に発展した千葉県の花栽培の歴史は古く、南北朝の時代、第三十五代花園天皇が姫を京都から逃避させるため淡路島に船出させましたが、途中海難に遭い太平洋を漂流後、今の南房総市和田町花園の木花台(ぼっけだい)に船が打ち上げられました。このとき、姫は持っていた黄色の花の咲く木を村人達に分け与え、それが花づくりの始まりという言い伝えが残っています。
江戸中期には、鋸南町の保田で栽培されていた水仙が江戸に送られていました(チバビズドットコム鋸南町の日本水仙をご覧ください)。
近代には明治19年に南房総市丸山町真野地区でテッポウユリの球根切花栽培や輸出用の球根栽培を、富浦町では明治35年にボタンを栽培して出荷していた記録も残されています。その後、富浦町、丸山町、和田町、白浜町、富山町など房総各地で花卉(かき=観賞用になるような美しい花をつける植物の総称)栽培が始まりました。太平洋戦時中は一時花卉生産が中断されたものの、戦後まもなく再開し、千葉の春の観光の目玉の一つとして「花摘み」が始まり、花は千葉の名産品として育ってきました。
水仙
  • ●菜の花は県の花ではない
千葉県の花とされている「菜の花」は、実は正式に決まっているものではありません。昭和29年4月にNHKが中心となって一般から公募して選ばれたのが菜の花で、今では千葉県の花として定着しています。
もともと菜の花の栽培は、切り花用や養蜂越冬用として水田や空閑地に撒かれていたもので、県内のいたるところで見ることができました。初春の寒々とした景色の中で鮮やかな黄色い花を咲かせている菜の花が深く印象に残ったからかもしれません。
いすみ鉄道沿線ではボランティア団体が沿線に菜の花を植え、観光客の目を楽しませるとともに鉄道ファンの撮影スポットにもなっています。
このように観賞用の菜の花はもちろんのこと、千葉は食用の菜の花の栽培もさかんで、全国総出荷の4割強を占め第一位となっています。目と味で春を感じさせてくれる菜の花は、千葉の大切な資源です。
墨名交差点とキュステ
●花は千葉の宝く
毎年新年を迎えると和田、千倉、白浜、富浦、丸山など南房総地域では花摘みが始まります。露地栽培やハウス栽培された菜の花、ポピー、キンセンカ・ストック・金魚草などが咲き誇り、観光客を迎えます。オフシーズンにはクローズしていた花畑の受付小屋や売店がオープンし、切り花はもちろんのこと、お土産物なども販売していて、土日には駐車場がいっぱいになるほど大勢の観光客でにぎわいます。
一方、四季を通じて花の生産がさかんな千葉県は花卉産出額では愛知県に次いで2位(平成27年)を誇っています。花別では、菜の花が第一位。次いでガーベラ、パンジーなどが上位で続き、他にフリージア、きんせんか、サンダーソニア、水仙、ひまわり、ベゴニア、カラー、きんぎょそう、アイリスなどの花々も主な生産県になっています。
ランク表
温暖な気候で、大消費地区東京に近い立地条件を背景に、千葉の花は観光に、人々を楽しませる農産物として、今後も千葉に大きく貢献していくでしょう。
墨名交差点とキュステ
(2019/3/11)
かつうらビッグひな祭り
かつうらビッグひな祭り
  • ●かつうらビッグひな祭りとは
「かつうらビッグひな祭り」とは、今年で18年目になる10万人以上の来場者を集める南房総の勝浦市で開催されているイベントです。開催期間は2月の下旬から3月3日、または4日までで、たくさんのひな人形が街を飾ります。メイン会場は勝浦会場、他に地区会場、さらに隣接する御宿町でも「つるし雛めぐり」が合同開催されます。
勝浦会場付近には大きな駐車場がないため、休日は近くの守谷海岸の海水浴場駐車場が使われ、各会場間を無料のシャトルバスが運行しています。
このイベントの始まりは、2001年(平成13年)に同じ「勝浦」の地名を持つ千葉県勝浦市、徳島県勝浦郡勝浦町、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の3市町が、「全国勝浦ネットワーク」を発足したことに始まります。設立目的は姉妹都市としての友好的な連携や災害時の相互応援協定でした。1988年(昭和63年)から徳島県勝浦町でビッグひな祭りが行われていたことから、千葉県勝浦市が7,000体のひな人形を里子として譲り受け、2001年(平成13年)からビックひな祭りを開催するようになりました。
ひな壇
  • ●約30,000体のひな人形が観光客を出迎える
勝浦会場は、勝浦駅近くの墨名(とな)交差点に約800体のひな人形が飾られ、観光客を出迎えてくれます。商店街奥の遠見岬(とみさき)神社の60段の石段には、約1,800体のひな人形が飾られ見る人を圧倒します。また、代々徳川家の幕臣だった植村家の菩提寺の覚翁(かくおう)寺の山門前に置かれた特設雛壇にも、約600体のひな人形が飾られています。
商店街には店独自にひな人形や「変わり雛」が飾られ、散策する人を楽しませてくれます。商店街から車で5~6分の勝浦市芸術文化交流センター「Küste(キュステ)」では、ホールの座席を雛段にした約6,000体のひな人形が展示されているほか、伝統工芸品の有職ひなや、江戸中期の享保年間に作られていた日本最大級の享保雛が、さらに歴史的に価値のある明治~大正時代に作られたものや、江戸後期に作られた古今(こきん)雛、なども展示されています。
墨名交差点とキュステ
6,000体のひな人形と古今雛
●地域パワーが働く
観光客が少ない冬の大イベントとして、勝浦一の集客数を誇る「かつうらビッグひな祭り」の実際の運営は、地道な活動の積み重ねで成り立っています。遠見岬神社、覚翁寺ほか屋外展示のひな人形は、会期中毎朝飾られ、毎夕撤去されるという大変な労力をかけています。また、展示されているひな人形は、使わなくなったひな人形の寄付を募集し、集めることで人形の供養としても役に立っています。
このような活動ができるのも、自治体と地域が協力して「地域パワー」で実行しているからでしょう。
人口が約18,000人ほどの小さな勝浦市ですが、きれいな海と豊かな里山の自然に恵まれた風光明媚な土地で、カツオの水揚げでは全国で一、二位を争っています。また、室町時代の天正から続いている朝市も全国に有名になっています。「かつうらビッグひな祭り」という一大イベントのほかにも最近では、勝浦タンタンメンがマスコミの話題に乗り、映画のロケ地としても有名になってきています。
勝浦の街を挙げた取り組みは、集客、街おこし、マスコミへの話題づくり、商店・飲食店など地域の店の利用促進など幅広い経済効果をもたらし、勝浦のビジネス活性化につながっていくことでしょう。
(2019/2/12)
香取神宮
香取神宮
  • ●全国400社の総本社 香取神宮
香取神宮は、経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神とする千葉県香取市にある全国400社ある香取神社の総本社です。その創建は、初代神武天皇18年の創建と伝えられ、鹿島神宮とともに大和朝廷の東国支配の拠点としていたという説があります。朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として、鎌倉から江戸時代と歴代の武家政権からは武神として崇敬されました。
下総国(現在の千葉県北部)の「一の宮」で、明治以前に「神宮」の称号を与えられていたのは伊勢、香取、鹿島だけでした。
宝物殿には国宝の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)や重要文化財の古瀬戸横涌釉狛犬(こせとおうゆうこまいぬ)、双竜鏡(そうりゅうきょう)などがあり、国・県指定の文化財だけでも200点余を所蔵・所有しています。
表参道と楼門
  • ●東国三社
日本神話によると、日本神話の天上の神々の国である高天原と死者の世界である黄泉国(よみのくに)の国の間にある、葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は大国主大神(おおくにぬしのみこと)という神様が治めていました。高天原(天上の神々の国)を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、葦原中国は自分の息子が治めるべきだと考え、天穂日命(あめのほひのみこと)、天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしました。しかしいずれも失敗したので、次に経津主神と建御雷神(たけみかづちのかみ)を派遣しました。その結果、大国主命は国を天照大神に譲り、日本の国は平定されました。これは「国譲り」と呼ばれています。
この「国譲り」で日本の建国に尽くした神の経津主神を祭神とする香取神宮、建御雷神(たけみかづちのかみ)を祭神とする鹿島神宮、更に両祭神を東国へ先導した久那戸神(くなどのかみ)と建御雷神の副神だった天鳥船命(あめのとりふねのみこと)を祭神とする息栖神社を併せて東国三社といいます。
不思議なことに、この香取、鹿島、息栖の三社の位置関係は、ほぼ二等辺三角形になっていて香取神宮と鹿島神宮それぞれには、要石(かなめいし)があります。
地震は地中に棲む大ナマズが暴れて起こすと考えられていて、香取神宮の要石はその尾を、鹿島神宮の要石はその頭を押さえて地震を抑えているとされ、地中で繋がっているとされています。
江戸時代の旅行は伊勢神宮への参拝が人気で、関東よりも北の地区からの観光客は、お伊勢参りをした帰りにこの東国三社に立ち寄ることが慣習となっていたようです。
鹿島神宮と息栖神社
要石
●商売繁盛
神道において神の霊魂は荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきみたま)の二つの側面を持っているとされています。荒魂は神の荒々しい側面で、勇猛果断、仁義を重んじ、困ったり苦しんでる人を見ると、体を張って助ける自己犠牲的精神と忍耐を持ち、新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂ともいわれます。香取神宮の境内には経津主神の荒魂を祀った奥宮(おくのみや)があります。
一方、和魂は更に幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)に分けられ、幸魂は運によって人に幸を与え収穫をもたらし、奇魂は奇跡によって直接人に幸を与え、知識才略、学問、技術を表します。
香取神宮の例年の新年の参拝者は50万人ともいわれ、勝運、仕事運、道開き、厄払い、縁結びなど、仕事や人生全般に関する幅広いご利益があるといわれていますが、特に勝運・やる気・行動力アップなど成長・発展を促す道ひらきなど仕事に総合的な開運力のある、千葉県最強のパワースポットで「意を決す場所」ともいわれています。商売繁盛を願って香取神宮にお参りしてはいかがでしょうか。
(2019/1/7)
九十九里浜
九十九里浜トップ
  • ●東洋のドーバーが生んだ砂浜
房総半島の東岸の太平洋側、屏風ヶ浦の南端、刑部岬と太東崎の間、約66kmの海岸が九十九里浜です。日本では、静岡県から愛知県にかけて全長115kmある遠州灘の次に大きな海岸になります。一里ごとに屋を立てていくと、99本になったことから源頼朝が九十九里と名付けたといわれ、森・滝・渚全国協議会で日本の渚100選にも選ばれています。
九十九里浜は、日本列島の南岸に沿って流れる黒潮と、南下してくる親潮が交差する場所にあり、浜の両端には東洋のドーバーと呼ばれている屏風岬と太東崎の二つの岬があります。この岬の地層はとても脆く海食されやすいもので、この地層が親潮と黒潮がぶつかる太平洋の荒波に削られ、その土砂が沿岸流に乗って入り江に砂状に堆積していき、九十九里浜ができました。
かつては年間1mの速度で削られていましたが、侵食が激しいために、第二次大戦後、護岸や人工構造物で海食対策を行いました。ところがその影響で、九十九里浜に供給される砂が少なくなり、現在では砂浜が減少するという事態が発生しています。匝瑳市の堀川浜海水浴場では、約100mあった砂浜が10~20m程まで縮小してしまいました。更に、波打ち際の傾斜が急になって満潮時には水深が深くなって危険なため、2009年に閉鎖されるなど、九十九里浜はその姿を変えつつあります。
変貌する海岸
  • ●地曳網と九十九里
戦国時代、今の京都や大阪など関西方面で、農業を兼業していた漁民が余った鰯を乾燥させた干鰯(ほしか)を肥料として使うようになりました。江戸時代になり、干鰯が木綿や菜種の栽培に適していたことから、需要が拡大しました。一方、鰯の漁獲高は減少してしまったため、当時中心となっていた紀州の漁民たちは新たな漁場を求め、太平洋岸各地に漁場を求め、地曳網などの漁法を伝播させていきました。
九十九里浜もその一つで、紀州から来た漁民たちが地曳網で鰯を獲り、干鰯を作って関西方面に輸送していました。1703年に関東地方を襲った元禄地震の大津波で、紀州から鰯を求めて来ていた漁民が壊滅的な被害を受けたことから、地曳網による鰯漁の中心は地元九十九里の漁民たちに移りました。
九十九里で生産された干鰯は江戸でも盛んに利用されるようになり、大網から千葉市の登戸までを、当時土気街道と呼ばれていた街道を通り、船で江戸へ運ばれていました。
港の風景
●サーフスポットとしての九十九里浜
明治時代には漁法も変わり、大型の漁船が使われるようになると、九十九里浜は遠浅な砂浜海岸のため港を建設しにくいことから、次第に観光地へと変化していきます。 1902年に、今の片貝海岸付近に無料休憩所が設置されたことで、九十九里浜の海水浴場が誕生しました。第2次世界大戦後の高度経済成長期には、海水浴客のための海の家や民宿が作られ、1960年代には海水浴ブームとともに、九十九里浜は観光地化していきました。
また、戦後駐留していたアメリカ軍がレジャー施設として訪れるようになり、1960年代にはその影響を受け、サーフィンを楽しむ日本人が増えていきました。1970年代には日本でサーフィンブームが到来、九十九里浜はサーフスポットとして定着しサーフショップなどもできるようになっていきました。
2020年の東京オリンピックで、日本有数のサーフスポットである一ノ宮町の釣ヶ崎海岸が会場になることが決定し、その経済効果も期待されています。
時代とともに変化してきた九十九里浜を千葉の資源として守り、オリンピックが終わっても千葉の資産として守って行きたいものです。
サーフィン
(2018/12/10)
落花生
落花生
  • ●千葉の落花生は日本一
千葉といえば、「落花生」しか無いと冗談をいわれるように、千葉県の落花生の生産高は、2016年のデータでおよそ12,300tと全国の生産高15,500tのおよそ80%を占めており、ダントツで1位を続けています。
落花生の花は咲いたあと、たった1日で枯れ落ちます。花が枯れてから一週間後に花と茎の間から子房柄(しぼうへい)というものが伸び、土に突き刺さり、その先端にさやができて落花生になります。「花が枯れ落ちて実が生まれる」ことから落花生という名前になったといわれています。
落花生の花
収穫時には3〜5株をひとまとめにして、根を上にして立てて畑で一週間ほど乾かします。このやり方を地干し(じぼし)といいます。その後円筒状に積み上げ、1〜2ヶ月間風に当ててじっくりと乾燥させます。この状態を「ぼっち」といい、雨よけとしてその上に藁(わら)をかぶせることから「藁ぼっち」といいます。今では藁ではなくブルーシートをかけることが多いようです。
落花生の新豆が出回るのが9月から11月、収穫して乾燥させない茹で落花生の品種は9月初旬から、その後、中生(なかて)品種のナカテユタカは10月中旬頃から、晩生(おくて)品種の千葉半立が11月初旬から店頭に並びます。
ぼっち
  • ●なぜ千葉県が落花生の産地になったのか
落花生は南米が原産で東南アジアを経て沖縄に入ってきたようです。沖縄ではかなり古くから栽培されていましたが、本州には入ってきませんでした。本州へは江戸時代に中国から入ってきましたが、その当時は栽培されませんでした。
千葉の落花生栽培の歴史は明治時代からです。当初は明治9年に、現在の山武市で栽培が始まりました。翌年明治10年に、県令(知事)の柴原和氏が鹿児島から種子を取り寄せ、現在の旭市で栽培を奨励したそうです。
当時の旭市周辺は「椿の海」と呼ばれた湖を干拓した砂地で、痩せた土地でした。そこでそのような土地に適した作物を探していたところ、白羽の矢が立ったのが落花生でした。
旭市で栽培された落花生は販売に尽力したこともあり、千葉県の落花生の生産地になりましたが、その頃の品種は干ばつに弱く収穫量が安定しなかったため、次第に生産量が少なくなっていきました。
一方、八街は干ばつの影響を受けにくく、収穫量が安定する品種を中国から仕入れて生産に成功しました。こうして落花生の生産地の中心が旭市から八街市に移っていきました。
●八街市が一番
江戸時代、現在の八街市など千葉県中部の内陸の地域は、生活用水の確保が難しいことから、集落はあまり形成されず原野となっていたため、「牧(まき)」という馬の放牧地になっていました。明治時代になって、牧は廃止され、政府は版籍奉還によって失業状態になってしまった士族に開墾を行わせるために牧の地域へ入植させました。
入植した元士族達は、開墾した土地で様々な作物の栽培を始めましたが、土地は富士山などの火山灰などが風で運ばれて降り積もった関東ローム層でしたが、干ばつに強い落花生は適していたので盛んに栽培されるようになりました。
昭和になり、千葉県は農業試験場での落花生研究に着手し、「千葉43号」の他2種を開発しました。特に「千葉43号」は、良質で栽培しやすく干ばつにも強いため、全国的に普及しました。
昭和16年に戦時体制に入ると、八街市の一部を除き落花生栽培は禁止されましたが、戦後昭和21年から再び栽培が始まりました。特に栄養価の高い食品としての価値が高まり、売れ行きが伸びたために価格が暴騰し、八街市を中心とした地域でも生産が急速に伸びました。更に優良品種の「千葉半立」が育成されたことで、全県に渡って栽培されるようになりました。
こうして千葉の落花生は、八街市を中心に全国一位の生産地として、また千葉の名産としてその地位を保っています。
八街の碑
(2018/11/9)
サツマイモ
サツマイモ
  • ●千葉はサツマイモの生産高第3位
サツマイモ(薩摩芋)の原産地は中南米とされ、日本へは中国を経て1600年頃に沖縄の宮古島、九州、本州の順に伝わったとされています。千葉県の平成28年度の統計では、103,500tと鹿児島、茨城についで第3位の生産高を誇っています。県内の主な産地は、香取市、成田市、多古町で、8月から翌年6月までの7月を除いたほぼ1年間収穫されています。旬は8月後半から4月までで、特に美味しいのは10月から1月までの時期です。
現在市場に出回っているサツマイモの種類は32種類で、一般的な食用のほか、でんぷん粉原料用、焼酎用などの用途等でも使われています。栽培は、地上部が繁茂すると雑草の発生をおさえるので、収穫時期まではほとんど手間がかかりません。根の養分吸収力が他の作物よりも強いので、風害に強く、干ばつ被害も少なく、温度条件さえ満たせば土質が悪くてもある程度の収量が期持でき、収穫期間が長く、豊凶差が少ない野菜です。
土のサツマイモ
  • ●サツマイモで飢饉を救う
1732年(享保17年)、冷夏により稲を食い荒らす害虫が大量発生し、大凶作となった享保の大飢饉が起きました。特に西日本では飢えと寒さで200万人以上の死者が出たといわれています。八代将軍徳川吉宗は、飢えに苦しむ農村を救うために江戸市中の米を買い上げ、被害の大きい西日本の農村へ送るという、緊急措置を実行しましたが、それが原因で、江戸市中の米の価格が5倍にまで急騰し、江戸の庶民が飢えに苦しむことになってしまいました。江戸の市中は、買い占めなどによる物価高騰の原因とされた者に対して家屋などを破壊する「打ち壊し事件」が多発し大混乱が発生しました。
将軍からこの事態の収拾の命を受けた江戸町奉行大岡越前は、食糧危機から脱する解決策を儒学者・蘭学者であった青木昆陽に託しました。昆陽は凶作の対策について書かれた書物を読み漁り、飢饉の際に栽培する作物を徹底的に調べ上げた結果、甘藷(現在のサツマイモ)にたどり着きました。当時、甘藷は九州では栽培が始まっていましたが、江戸には知られていませんでした。1733年(享保18年)にサツマイモが持つ13の優れた効能を「蕃藷考」という書物を書きあげ、それを見た大岡越前が将軍に報告すると、将軍からは試作をするよう命が下りました。
●関東のサツマイモのふるさとは幕張?
飢饉対策として検討されたサツマイモは、1734年(享保19年)に幕府は馬加村(現千葉市幕張町)、江戸小石川の養生園(現小石川植物園)、上総豊海不動堂(現山武郡九十九里町)が甘藷試作地とされました。1735年(享保20年)には飢饉による餓死は深刻化し一刻も早い対策が急がれていました。同11月に3箇所の試作地のうち馬加村の甘藷が栽培に成功し、翌年にはその種芋から関東一帯で栽培が始まりました。1736年(元文元年)には昆陽は薩摩芋御用掛に任命され、その後元文4年(1739年)には御書物御用達となり、サツマイモ栽培からは離れましたが、青木昆陽はサツマイモの普及を図った功績で、甘藷先生と呼ばれていたそうです。
その後江戸時代1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に発生した天明の大飢饉では、サツマイモのおかげでたくさんの命が助かり、試作地だった馬加村では一人の餓死者も出さなかったことから、1846年(弘化3年)に古くからあった「権現様」秋葉神社の境内に「芋神様」昆陽神社として祭られました。
昆陽神社
また、神社付近の試作の地は1929年(昭和29年)に千葉県の指定史跡に認定され、記念碑が立てられています。
青木昆陽甘薯試作地
観光地「小江戸」として有名な埼玉県川越市名物のサツマイモ栽培の始まりも、1751年(寛延4年)に上総国(現在の市原市)から取り寄せた種芋が始まりでした。甘藷の試作地になった現在の幕張から花見川にかけての地域は、昭和30年代までは栽培の盛んな地域で、芋苗の供給地、千葉県産サツマイモのふるさとともいわれています。
(2018/9/10)
梨園
  • ●生産高一位の梨
千葉というと落花生のイメージが強く、他の農産物があまり取り上げられませんが、実は多数の農産物が国内生産量で上位を占めています。ただし、国内生産量一位のものはそれほど多くはありません。数少ない一位のひとつが梨です。
最新のデータではありませんが、平成28年(2016年)のデータでは、千葉県の梨の生産量は、32,700tと2位の茨城県24,800tに大きく差をつけて全国一位を誇っています。市町村別の統計では、生産量1位が白井市で18.8%、2位が市川市の16.8%で、ふなっしーで有名になった船橋の生産量は、実際には4位です。
生産量の表
千葉県の梨は、温暖な気候のため関東地方の中では最も早く梨が開花し、8月から9月にかけて収穫されます。東京にも近く、古くは江戸時代から千葉の梨は高い評価をされてきました。現在、県内で生産されている主な品種は、以下のような時期に収穫されています。
収穫時期
幸水・豊水
二十世紀・新高
  • ●なぜ千葉で梨が栽培されたか
梨は日本で栽培されている果物の中でもその歴史は古く、中国を原産とし、弥生時代から食べられていたといわれています。日本書紀には、梨の栽培が奨励されていたとの記述もあります。貴族の間では、儀式などに使われたり、和歌に詠まれたりと、日本人とは永い付き合いのある果物です。
千葉県で栽培が始まったのは江戸時代で、現在の市川市八幡地区の川上善六氏が美濃国大垣(現在の岐阜県)で技術を学び、持ちかえって栽培したのが最初だといわれています。幸いなことに、県北の台地は富士山の噴火などでできた関東ローム層で、水はけが良く梨の栽培に適していたため、江戸に出荷された梨はで高級品としてもてはやされました。これがきっかけで、千葉県内の産地は拡大していきました。
梨の定番品種の二十世紀は、鳥取が日本一の生産地ですが、その発祥は千葉県松戸市でした。明治27年(1898年)に松戸市在住の松戸覚之助氏が裏庭のゴミ捨て場に生えていた梨の木を発見し育てたものが始まりで、農学者の渡瀬寅次郎氏や池田伴親氏らが、「来る二十世紀には王座を成す梨になるだろう」ということから二十世紀と命名しました。
●梨を地域ブランドとして販売する
千葉県内にはいくつもの梨の生産地があり、そのうち3つの地域で地域団体登録商標を取得しています。地域団体登録商標とは、地域の名称と商品などの名称を一般的な文字で表示できる商標で、一定の範囲で知られているという事実を元に、事業協同組合、農業協同組合などの団体で取得する商標です。
千葉県内の梨は、市川が「梨」の文字を漢字とひらがなの使い分けで2種、白井市と船橋市もそれぞれ地域団体登録商標を取得し、地域ブランドとして差別化をはかっています。
商標名の表
梨の生産地では、果物としての販売のほか、材料として梨を使った和菓子、洋菓子、ワイン、ブランデー、ジュース、酢など様々な商品が開発されています。販売方法にも特徴があり、最盛期の梨の生産地付近では、たくさんの販売小屋を見かけます。それは、通常の農産物の販売ルートではなく、梨狩りや生産者による直売で販売されているからです。その量は、生産高の70%を占めているといわれています。小売店に置かれている梨は、店頭に並ぶ時に良い色になるように、青いうちに収穫しますが、直販している梨は木で熟してから収穫しているので、おいしさがまったく違うからです。
千葉の梨発祥の地、市川市を通る国道464号線の北総線大町駅付近は、通称「大町梨街道」と呼ばれ、道沿いに約50件の梨農家の直売所が軒を連ねています。また、八千代市では八千代市村上付近の国道16号の沿線に多く見られます。
江戸時代から続く千葉県の梨、これからが本格的に出回る季節です。千葉の美味しい恵みを是非味わってください。
新高の花
(2018/8/9)
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