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大多喜町 大多喜城
地図
大多喜町の中心「大多喜城」
 房総半島の南部の房総丘陵に位置し森林が70%を占める大多喜町は、北部に千葉県最大の流域面積を持つ蛇行する「夷隅川」が、西部には観光地で人気の養老渓谷の名所「粟又の滝」がある「養老川」が流れています。
 また南関東一帯に広がる水溶性の日本最大の天然ガス田「南関東ガス田」は、1891年(明治24年)に大多喜町の山崎屋太田卯八郎によって発見され、大多喜町が天然ガス発祥の地とされています。
 町の中心にある大多喜城は1871年(明治4年)に取り壊されましたが、1835年(天保6年)に作成された図面を元に1975年(昭和50年)に鉄筋コンクリートの三層4階建て天守の再建築が行われました。再構築された大多喜城は2017年(平成29年)に財団法人日本城郭協会が認定する「続日本の100名城」に選定されました。また大多喜城の中には「千葉県立中央博物館大多喜城分館」が設置されました。大多喜城に隣接している「千葉県立大多喜高校」は城跡に建設されたため、敷地内に「二の丸御殿薬医門(にのまるごてんやくいもん)」や「大井戸」などが残されています。
 1609年(慶長14年)にスペインの貴族でフィリピンの臨時総督「ドン・ロドリゴ」が次期総督と交替するためフィリピンのマニラからアカプルコに向けての航海中に台風に遭遇し、乗船していた「サン・フランシスコ号」が難破してしまいました。漂着した彼らを大多喜藩領の岩和田村(現在の御宿町)の人々が救助し、当時の藩主で「本田忠勝」の次男「忠朝」もロドリゴのもとを訪れ、幕府に報告すると共に彼らに温情のある措置をとりました。
 救助されたロドリゴ達は、大多喜城で忠朝の歓待を受けた後、江戸城に立ち寄り、その後駿府城で家康と会見をするなどして無事にアカプルコに戻ることができたという逸話が残っています。
粟又の滝
多くの観光客が訪れる養老渓谷の粟又の滝
上陸地
現御宿町にあるドン・ロドリゴの上陸地

薬医門
同じく大多喜高校内に残っている「薬医門」
大井戸
千葉県立大多喜高校敷地内にある大井戸

本田忠勝・忠朝が大多喜町の礎となる
 千葉で勢力を持っていた「真里谷氏」は、「武田信玄」を生み出した甲斐国(現在の山梨県)の武田氏が始まりで、十代目の「武田信満」の次男「武田信長」が1456年(康生2年)に下総国古河(現在の茨城県)を本拠としていた足利成氏の命を受け上総国に侵入したのが千葉の武田氏の始まりでした。孫の「信興(のぶおき)」は「真里谷」と改称して真里谷氏の祖となりました。
 大多喜城は、「真里谷信興」の孫の「信清」が1521年(大永元年)に「小田喜城」として築いたのが始まりだとされています。その後1544年(天文13年)に里見氏の武将「正木時茂」によって城を奪われました。正木氏はその後三代に渡って支配していましたが、1581年(天正9年)に館山城主の「里見美頼」との内紛で当時の城主「憲時」が殺害され、正木氏に代わって里見氏の代官が城主になりました。
 里見氏は1590年(天正18年)に豊臣秀吉が大名間の「私闘」を禁じた「惣無事令(そうぶじれい)」に違反したことを理由に上総国を没収され、1590年(天正18年)に上総国は徳川家康に与えられました。そこで家康は配下の「徳川四天王」のひとり「本田忠勝」を送り、大多喜藩10万石が成立しました。忠勝は里見氏の北上を防止するため大改築を行った城が現在の大多喜城の姿です。完成した大多喜城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を配し、南は夷隅川(いすみがわ)が流れる崖地、西は空堀、東と北には水堀に囲まれ、外敵からの攻撃を強固に防ぐ近世の城郭でした。
 1601年(慶長6年)には「本田忠勝」は伊勢国桑名に移され、大多喜藩は次男の「忠朝」に5万石として与えられました。「忠朝」は領内の検地を行うなど藩政の固めに専念しましたが、「大坂夏の陣」で戦死してしまい、嫡男の「政朝」が家督を継いだものの、1617年(元和3年)に「播磨国龍野藩」に移され、「武蔵国鳩ケ谷藩」の「阿部正次」が3万石で入りました。その後1619年(元和5年)に「小田原藩」に移され、一時的に廃藩になってしまいました。
 1671年(寛文11年)にようやく「阿部正春」が1万6千石で入城し、大多喜藩が復活しましたが、1842年(天保13年)に天守が消失しまし、財政難に苦しんでいたため天守の代わりに2層の「神殿」が1844年(天保15年)に建築されたとされています。
 1975年(昭和50年)に鉄筋コンクリートで再建された現在の大多喜城は、2017年(平成29年)に財団法人日本城郭協会が認定する「続日本の100名城」に選定されました。
「大多喜城
大多喜城
本田忠勝
本田忠勝

大多喜城と「本田忠勝」「忠朝」で観光客を誘致
 2024年(令和6年)4月現在、大多喜城は大規模改修中で終了後は大多喜町に移譲することになっており、「千葉県立中央博物館大多喜城分館」は大多喜町の町営博物館として運営される予定となっています。
 真里谷氏が興した「小田喜城」はその後「大多喜城」となり「本田忠勝」が城主となったこと、そして里見氏を牽制した難攻不落な城と今でも名残がある城下町を作ったことは町民の誇りになっているのでしょう。
 1975年(昭和50年)には大多喜城が建設されたことを記念して「大多喜お城まつり」が開催され、その後毎年10月に開催されるようになりました。「お城まつり」は回を重ねるごとに規模が拡大し、人気の武者行列に俳優など著名人が「忠勝」に扮するなど毎年多くの観光客を集めるまでになりました。2018年(平成30年)に開催された「第44回大多喜城お城まつり」以後コロナ禍で中止となっていた「お城まつり」は、2023年(令和5年)にようやく再開されました。「大多喜城まつり」で多くの観光客を集めることができたことで、人気武将「本田忠勝」「忠朝」親子にクローズアップした新たな取り組みも始まりました。
 2009年(平成21年)に大多喜町内の各種団体の代表者や有識者をメンバーとしてNHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝誘致実行委員会」が組織され、本田忠勝と忠朝の話をNHKの大河ドラマで採用してもらう活動が始まりました。町内の至る所にのぼり旗を掲げ、町を訪れる観光客にもアピールすると共に、署名活動、更にホームページから署名できる「インターネット署名」を設けるなどの活動を続けています。大河ドラマで採用されるのは難しいかもしれませんが、これからも大多喜町は「町のプライド」大多喜城と大多喜町の基礎を作った「本田忠勝・忠朝」を掲げ、多くの観光客を集めるための努力をしていくでしょう。
本田忠勝の銅像
橋の欄干の本田忠勝の銅像
本田忠勝・忠朝墓所
本田忠勝・忠朝墓所

(2024/7/10)
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