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【ちばのへり】
 海と川に囲まれた千葉県の「へり」には何があるのか。ビジネスの種が見つかるかもしれません。そんなビジネスの種を見つけるため、「ちばのへり」コーナーではそんな「種」を探してご紹介します。
Vol.87 【ちばのへり】上陸の地
上陸の地
神々が上陸した地
 海と川に囲まれた千葉県には神話から近代まで様々な「上陸の地」が存在します。神話の世界では様々な神様がこの千葉県に上陸したとされ、石碑なども置かれています。
 東国三社として知られ、全国に約400社ある総本社「香取神宮」の主祀神「経津主神(ふつぬしのかみ)」は、神話の「国譲り」に登場する神様です。「天照大神(あまてらすおおかみ)」が「大国主神(おおくにぬしのかみ)」から日本の支配権を譲り受けたという「国譲り」神話で、「天照大神」から遣わされた「経津主神」が船で海を渡ってやって来て上陸した場所が利根川鳥居河岸にある「津宮浜鳥居(つみやはまとりい)」の場所とされています。かつてはこの鳥居から続く道が香取神宮の「表参道」とされており、石碑はないもののこの鳥居が「上陸の地」を表しています。十二年に一度行われる式年神幸祭では、ここから御神輿を乗せた御座船が利根川を遡ります。
 また、千葉県にも「日本武尊(やまとたけるのみこと)」神話がいくつかありますが、なかでも「木更津」という地名の元になったという神話があります。木更津市に伝わる「きみさらず伝説」によると、「日本武尊」と妃の「弟橘媛(おとたちばなひめ)」が東国征伐に向かう航海中、浦賀水道まで差し掛かった時に海神の起こした波で海が大荒れになりました。死を覚悟した二人でしたが、海神の怒りを鎮めるために「弟橘媛」が自らを海に捧げた事で、海神の怒りは静まり「日本武尊」は無事木更津に上陸する事が出来ましたが、「日本武尊」は妃の事を思ってこの地を離れる事が出来なかったということです。「日本武尊」が妃を思って詠んだ歌が「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」という歌で、この「君去らず」が転じて「木更津」になったといわれています。海を見下ろせる高台にある「太田山公園」には、「きみさらずタワー」という展望台が設置され、展望台の上には「日本武尊」と「弟橘媛」の像が置かれています。
 更に「天富命(あめのとみのみこと)」と大和朝廷の宮廷祭祀や祭具の製作、宮殿造営などを担っていた「忌部氏(いんべうじ)」祖となった「由布津主命(ゆふつぬしのみこと)」が房総半島の南「安房」地方を開拓したとされています。また、上陸したとされる南房総市白浜には「下立松神社」建てられ、「由布津主命」の祖父で日本の弓矢の創始神、そして製紙の祖神、開運・殖産の神とされている「天日鷲命(あまのひわしのみこと)」が祀られています。
香取神宮
利根川沿いに建てられた香取神宮の「津宮浜鳥居」
利根川から続く香取神宮のかつての表参道

きみさらずタワー
日本武尊と弟橘媛の像がある「きみさらずタワー」
由布津主命が祀られている下立松神社

歴史に大きな足跡を残した上陸の地
 桓武平氏の一族だった「平将門」が関東を独立国家にして自らは「新皇」を名乗り935年(承平5年)~940年(天慶3年)に起こした反乱「平将門の乱」で、社会には不安と混乱が発生しました。それを鎮める祈祷のため、真言宗の僧侶「寛朝(かんちょう)」が京都にあった「不動明王像」を関東へ向けて運び出しました。上陸したのが現在の横芝光町にある「尾垂浜(おだれはま)」で、21日間の祈願によって「平将門の乱」が平定されました。この「不動明王像」は、成田山新勝寺の本尊となり、今では首都圏エリアの初詣参拝客数2位を誇るまでになっています。「不動明王像」が上陸した「尾垂浜(おだれはま)」には、1960年(昭和35年)には記念碑が建てられ、1998年(平成10年)には波を打ち砕く不動明王の像「波切不動尊像」が設置されました。
 平安時代後期には、当時勢力を握っていた平氏を打倒すべく立ち上がった源頼朝が1180-年(治承4年)に「石橋山の戦い」に敗れ、現在の南房総「安房国」に逃れました。逃れた頼朝が再起しその後初めての武家政権「鎌倉幕府」を成立させた事から、千葉県内にはいくつもの頼朝伝説が残っています。「安房国」に逃れ、千葉に上陸した場所が鋸南町の「竜島海岸」とされており、「源頼朝上陸の地」という記念碑が建てられています。
 南総里見八犬伝でも描かれている「里見氏」は現在の新田氏一族から分家し、現在の群馬県にあたる上野国を拠点としていた里見氏は、その後全国へと広がっていきました。安房国を支配していた里見氏の初代とされる里見義実は、室町幕府に対して反乱を起こした「結城合戦」で結城氏に味方し敗れて三浦半島から安房国の野島崎に上陸したのが1445年(文安2年)とされています。義実は白浜に居城を構え、当時安房国を支配していた安西氏、神余氏、丸氏、東條氏の四つの豪族を打ち破り、房総里見氏の礎を築きました。野島崎には「里見義実上陸の地」の記念碑が建てられています。
波切不動尊像
成田山の本尊が上陸した場所に建てられた「波切不動尊像」
鋸南町竜島に建てられた源頼朝上陸の地碑

源頼朝上陸の地碑
館山市洲崎にあるもうひとつの源頼朝上陸の地碑
野島崎に建てられている「里見義実」上陸の地

命を救った上陸の地
 時には荒波が荒れ狂う太平洋に面した房総半島には、船で航海していた人達が嵐で遭難した人々を救ったという美談も残っています。
 1275年(健治元年)に公卿だった藤原兼貞が3隻の船で航海中に台風に出会い、現在のいすみ市にある「岩船海岸」に漂着し、船中で亡くなった12人を除き、地元の漁師が生き延びた63人を助けだしました。台風が通り過ぎ波風が静まると、奇瑞(めでたいふしぎなしるし)が現れ、乗ってきた船が大きな岩に変わってしまいました。この不思議な出来事が起きた事から、亡くなった12人と助かった63人を合わせた75人を「神」として祀るようになり、岩に変わった船を「御船岩」と呼び、一緒に流れ着いた地蔵尊を「岩船地蔵尊」として祀って、船が漂着した場所は「七十五座漂着の地」として記念碑が建てられています。
 遭難した人を救った話は、日本人だけではありませんでした。1609年(慶長14年)にドン・ロドリゴ・デ・ビデロ・イ・ベーラコスがフィリピン諸島長官の任期を終え、マニラからメキシコに帰還する途中に暴風雨に遭い、現在の御宿町岩和田(いわわだ)海岸沖で座礁しました。317名いた乗組員は当時の村民達によって救助され、当時の大多喜城主「本多忠朝」は彼らを岩和田村の大宮寺に滞在させて、食料や衣料を与え、ロドリゴを大多喜城に招きました。更にその後ロドリゴは徳川家康・秀忠に謁見して、翌年は「三浦按針(みうらあんじん)=ウィリアム・アダムス」に建造させた大型帆船で浦賀からメキシコに送還させました。この美談によってこの三つの国の間に友好関係が生まれ、1928年(昭和3年)にロドリゴが救助された付近の海を見渡せる高台に「日・西・墨三国交通発祥記念之碑」が建てられました。
 美談ではなく鎖国中に千葉に外国人が上陸したという話は、他にも残されています。1739年(元文4年)にオホーツク探検事業で航海していたロシアの「シュパンベルグ」が率いる船団の中で「ヴァリントン大尉が指揮するガヴリエル号の乗組員数名が、ボートで現在の鴨川市天津に上陸しました。この出来事は鎖国下の日本で最初に上陸したロシア人となって現在は鴨川市指定の史跡として、記念碑が建てられています。
 かつては物流の動脈として機能していた川や海は今でも物流の動脈として機能するとともに「上陸の地」にもなっていましたが、現在は千葉県には空も加わって空港も「上陸の地」の候補になりました。「上陸の地」は必ずしも良い事ではありません。1945年(昭和20年)に敗戦後の連合軍の上陸地点となったのも現在館山市にある海上自衛隊館山航空基地がある場所でした。しかし、歴史の舞台の中で「上陸の地」によって何かしらの変化に繋がっているのでしょう。これからも千葉県に「良い事」の「上陸の地」として新たな歴史が生まれる事に期待したいと思います。
太海港
いすみ市岩船にある七十五座漂着の地
岩船地蔵尊

太海港
いすみ市の岩船海岸
日・西・墨三国交通発祥記念之碑

(2025/6/10)
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