四代目として
萬祝染の伝統を担う
房総発漁師の祝い着
萬祝染
江戸時代1800年頃には南房総地区は綿花の栽培が盛んに行われ、鰯を乾燥させた干鰯(ほしか)が肥料として使われていました。漁師たちは大量の鰯を獲り多くの利益を上げ、船主が大漁祝いの引き出物として漁師達に配った祝い着が萬祝です。この風習は主に太平洋沿岸に広く普及し、北は青森、南は静岡まで普及していました。
萬祝と大漁旗の図柄は似ていますが、着色する素材として大漁旗は染料を使い、萬祝は天然の鉱物などで作る顔料を使っています。大漁旗は裏側からも見るものなので布に沁み光を通す染料を使いますが、萬祝は着るものなので裏側から見る事が無いため布地の表面に定着し、水に強く色落ちしない性質の顔料を使っています。
萬祝染めの図柄はひとつひとつに物語が込められているので、昔からの図柄は大事にしています。何故鶴と亀が描かれているか、何故鰤が描かれているかという背景にあるストーリーを伝える事も仕事だと思って大事にしています。
萬祝染めに使う型紙だけでも2,000~3,000枚もの数があり、一番古い物は明治時代に作られたものもあります。新たに図案を描いて型紙を掘る事もありますが、型紙は紙なのでいずれは劣化してしまうため、「下絵」と呼んでいるデザイン帳を参考にしながら一から掘っていきます。この「下絵」さえあれば型紙を作り直す事が出来るのでこれも大切な財産です。
今では大漁を祝って萬祝を配る風習は無くなってしまい、祭りやイベント、和太鼓の奏者の衣装として使われる他、使われる絵柄が縁起の良い物なので新築祝いや、おすし屋さんが開店祝いで配るなど祝い事の他「のれん」や萬祝染めの図柄入りの物を額に入れた物なども人気で、結婚式のウエルカムボードにも使っていただいています。
デザインに関しては「萬祝らしく」というのがあるので、お客様から―オーダーをいただいた場合は別ですが、旧来の下絵をベースにしています。
萬祝染で作った半纏
地元鴨川の祭りではこの半纏が使われている
不器用だった子が
四代目になる
私が萬祝製作の仕事を始めたのは大学を卒業してからなので9年目になります。小さい頃には「染物体験」の様な事をさせてもらったり、父の仕事ぶりも見ていたので面白味は感じ継ぐ事自体に抵抗はありませんでした。でもこの仕事は需要の波がある仕事なので、そういった意味では継ぎたいと思っていませんでした。
私は3兄弟の末っ子で、兄弟の中では一番不器用で、工作も絵を描くのも苦手だったので、自分は向いていないと思っていました。細かい作業をするより体を動かす方が好きで、小学校から高校まではバスケットボールをやっていて、大学ではハンドボールのサークルに入っていました。
大学は神田外語大学で企業戦略を立てたり、企業とコラボしてグッズを作ったりする「国際ビジネスキャリア」を専攻していたので、インターシップや色々な経営者にお会いできる機会も多く、色々な経験をさせてもらえました。
姉は着物の仕立ての仕事をしていますが、兄は全く別の道の教員になり、両親から私に継いでくれと言われた事は一度もありませんでした。私自身もこの仕事で生活をしていくのは大変だと思っていたので、学生時代は選択肢からは外していました。
祖父が亡くなったのが丁度大学卒業を控え就職活動をしていた頃で、ちょうど将来どういう企業に入ろうかと真剣に考えている時期で、内定をいただいていた企業もありましたが決めきれない状態でした。頭をリフレッシュして考え直すために、バックパッカーとして2カ月間アメリカを旅行しました。その道中で偶然祖父の作品に出合い、現地の方とお話をしているうちに、昔作ったものが海外に渡ったり、色々な人の手を経て国際交流につながっていく姿を目の当たりにし、自分が作った物を後世に残して繋げていく事も面白いと思うようになり家業を継ぐ決意をしました。もし時期がずれていたらこうなっていなかったかもしれません。
型つけ(布地に糊を付ける)
色さし(図柄への色付け)
地染(生地のベースに藍染めをする)
写真左から初代曽祖父(故人)、二代目祖父(故人)三代目の父