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チバビズ探訪 バックナンバー(73~84)
Vol.75 【ちばのへり】野島埼
野島埼
国の登録有形文化財「野島埼灯台」
 「野島埼」は房総半島の最南端の「旧白浜町」にあり、2006年(平成18年)に行われた「平成の大合併」で周辺の町と合併し、南房総市になりました。
 かつて野島埼はかつてその景観から「文人墨客」が好んで訪れ、多くの詩や歌が残されています。旧白浜町内を流れる「長尾川」の河口近くには、1888年(明治21年)に地元の寄付で作られた石積みの三重橋「眼鏡橋」が残されています。この橋は作家の林芙美子が「支那風な眼鏡橋」と描写しており、白浜を訪れた林はこの橋に「異国」を感じたのではとされています。
 一方、旧白浜町のシンボル「野島埼灯台」は1870年(明治3年)に建てられ、東京湾に入る船舶の目印として154年もの間大切な役割を果たし続けています。またこの灯台は、全国に16基しかない「参観灯台」という一般人が昇る事の出来る灯台です。多くの観光客はその景色に魅了されています。
 1866年(慶応2年)5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と結んだ「改税条約(江戸条約)」に建設する事を約束した8ヶ所の灯台のひとつで、昔から野島埼周辺は海難事故が多発する海域として知られており、東京湾を出入する船舶にとって重要なポイントだったため他の灯台に先立って建設され、1870年(明治3年)に日本の「洋式灯台」として2番目に初点灯しました。この野島埼灯台は現在日本の灯台50選に選ばれ、国の登録有形文化財に登録されています。
めがね橋と野島埼灯台
めがね橋(眺尾橋)
房総半島最南端の地碑と野島埼灯台

地続きになった「野島」
 野島埼が最初に歴史の中に登場するのは、1180年(治承4年)に「石橋山の戦い」に敗れ房総半島に逃げ延びた「源頼朝」の逸話でした。頼朝は野島埼にも立ち寄ったとされ、岬に祀られている弁天堂の傍らにある岩に「野島山」の文字を刻み、武運再興の願掛けをしました。その時突然の雨で頼朝は雨を凌ぐため身を寄せたとされている「頼朝の隠れ岩屋」があります。この岩屋には深海に棲む大蛸が「海神」として祀られており、この大蛸に参拝する事で海面を鎮め、豊漁を授け、幸をもたらすとされ、アワビやサザエが供えられ、願をかけた賽銭が貝の中に入れば開運が訪れるとされています。
 室町時代に「常陸国(現茨城県)」に所領を持っていた里見家兼の子「義実」は1441年(嘉吉元年)に野島埼に上陸し、白浜に居城をかまえ房総を平定し、その後里見氏は江戸時代までその勢力を持っていました。白浜にある「三峰山 杖珠院(さんぽうさん じょうじゅいん)」は「里見義実」の墓所になっており、里見氏の菩提寺になっています。
 野島埼は古くは房総半島とは離れた島で「野島」と呼ばれていましたが、1703年(元禄16年)に起きた「元禄大地震」で4m以上も土地が隆起し、地続きとなったという説があります。しかし地震の7か月後に書かれたかつてあった法界寺の届書に「野島埼は津波の跡に地形が変わった」と記されており、地震以前から野島埼は存在し、既に一部が地続きであったという説もあるようです。
 太平洋戦争後1950年代(昭和25年代)に入って高度経済成長に突入すると温泉掘削が増え、千葉県内でも盛んに温泉が掘削されました。千葉県の温泉は非火山性のため温度は低めなものの、治療の目的に供しうることのできる「療養泉」が多く、旧白浜町でも1959年(昭和34年)の温泉が掘削され「白浜温泉郷」が誕生しました。
 また、1956年(昭和31年)には「房州白浜」を「観光」で売り出すために創作された、千葉県を代表する民謡の「白浜音頭」が作られ、野島埼附近に「白浜音頭発祥の地碑」が建てられるなど、観光の推進に余念がありませんでした。
頼朝の隠れ岩屋
頼朝の隠れ岩屋
頼朝の隠れ岩屋内にある大蛸

里見義実上陸の地碑
里見義実上陸の地碑
白浜音頭発祥の地碑

コロナ禍を抜けた人気観光スポット
 現在の野島埼一帯は「白浜野島埼園地」という名前で千葉県立の自然公園施設として整備されており、「屏風岩」や「洗濯岩」など、地中のプレートの動きで隆起した様々な形をした奇岩を見る事が出来、太平洋の景色と共にダイナミックな景観を見せています。周辺は海水浴場や別荘地、レジャー施設、マリンリゾートが多く並び、今では観光地・避暑地になりました。
 なかでも野島埼灯台一帯は散策道が整備され、入り口にある下立松原神社は頼朝祈願をかけた事で大願成就できた縁起の良い神社がある事から、白浜漁協は近くに全ての出発点からの成功を願って、「かっとびくん」というトビウオのオブジェを建てました。ほかにも白浜海洋美術館、灯台資料展示館「きらりん館」、頼朝の隠れ岩屋、厳島神社、三峯神社、稲荷社、金比羅宮など一帯に様々な神社や施設があり、岬先端の岩礁には「ラバーズ・ベンチ」が整備されており、朝日と夕日、そして天の川を見る事が出来るデートスポット、インスタスポットとして人気を集めています。
 また、南房総は古くから素潜りの伝統があり、5~9月頃にかけて白浜でも多くの海女(あま)さんが海に潜ります。1964年(昭和39年)からは毎年7月に漁業の安全と豊漁祈願を目的に千葉県最大の「夜祭り」の「海女まつり」が開催されています。夏の風物詩として行われていた「海女まつり」ですが、2020年(令和2年)に発生したコロナ禍の影響で中止を余儀なくされ、2023年(令和5年)に4年ぶりに開催されました。
 2019年(令和元年)9月に房総半島に大きな被害を及ぼした台風15号では、野島埼の宿泊施設も大きな被害を受け、コロナ禍でも大きな被害を受けましたが、コロナ禍の終焉でようやく正常に動き始めました。房総半島の中でも指折りの「観光資源」を持つ野島埼は、これからも千葉県の人気の観光スポットとして賑わっていくでしょう。
白浜温泉郷
白浜温泉郷に立ち並ぶホテル街
かっとびくん

野島埼の先端の岩場に設置されたラバーズ・ベンチ
野島埼の先端の岩場に設置されたラバーズ・ベンチ
若い海女の像

(2024/6/10)
Vol.74 【ちばのへり】三番瀬(さんばんぜ)
三番瀬(さんばんぜ)
魚介類が豊富な「三番瀬」
 「浦安市、市川市、船橋市、習志野市に跨る東京湾の干潟は三番瀬と呼ばれています。「三番瀬」は「さんばんせ」と言われがちですが、正しくは「さんばんぜ」で古くから漁業関係者が使用していた「漁場の通称名」からそう呼ばれるようになりました。現在は三番瀬東端のエリアは船橋航路や千葉港、西端には猫実川河口や日の出の埋め立て地が広がっていますが、埋め立て地が出来る以前は、干潟や浅瀬が旧江戸川の河口付近まで広がっていました。現在は市川市と船橋市の沖に広がる浅瀬や干潟を総称して「三番瀬」と呼ぶことが一般的になっています。
 「三番瀬」がある海域は、水深5m以下の浅瀬が3~4kmの範囲で広がっています。この浅瀬は潮の干満によって土の中に酸素が供給されているためハゼやアサリ、カニなどの生物が多く生息し、それを目当てに水鳥たちが集まります。更に周辺には「谷津干潟」や「行徳湿地」など、渡り鳥がやって来る「干潟」や「水辺」も広がっています。
 東京湾の中でも屈指の漁場のひとつで、海苔、アサリ、スズキ、カレイ、イワシなどが漁獲され「江戸前」として流通していました。また、江戸時代には「三番瀬」は「御菜浦(おさいのうら)」と呼ばれ、将軍家に新鮮な魚介類を納める重要な役割を果たしていました。
ふなばし三番瀬と谷津干潟
ふなばし三番瀬
谷津干潟

海水の増減によって生まれた「三番瀬」
 「12万年前の東京湾は現在より海水面が高くなっていたため、房総半島は島になっており、この頃の東京湾は「古東京湾」と呼ばれています。7万年前から1万年前までの「最終氷期」と呼ばれる旧石器時代になると、海水面は現在よりずっと低く、東京湾の入り口の浦賀水道から北は陸地になっており、「利根川」と利根川支流の「渡良瀬川」が合流し大規模な峡谷を作っていました。その後6000年前には海面が現在よりおよそ4m上昇し、東京湾は現在の埼玉県川越市付近まで湾が拡がっていました。
 今から3000年前には「縄文海退」が始まり、「利根川」「渡良瀬川」流域は広大な氾濫域や低湿地になりました。
 有史時代に入ると氾濫域や低湿地だった土地は次第に人工的に埋立てが行われ、江戸時代には幕府によって沿岸の埋立てが更に進み、江戸後期には外国船来航に対する湾岸防衛のために品川沖に「台場」も築かれるなど、東京湾は人の手によって変化していきました。
 東京湾で豊富に獲れる魚貝類は、世界最大の人口と言われた江戸の庶民の食を満たし、獲れる魚貝は「江戸前」と呼び名が誕生しました。
 明治時代以降になると東京湾沿岸や流入する河川の流域は都市化・工業化が進み、埋め立て地拡大に伴って「干潟」や「浅瀬」が大幅に減少すると共に水質悪化の深刻化が進み、1970年代(昭和40年代~50年代)にピークを迎えました。そのため海の生き物は激減し「死の海」と呼ばれる状態にまでなってしまいました。1980年代(昭和55年~60年代)になってようやく環境保全の取り組みによって水質の改善がみられるようになり、現在は徐々に生態系を取り戻しつつあります。
東京湾
江戸時代の東京湾
現在の東京湾を望む

干潟
かつての市川の干潟は工業地帯が作られた
綺麗になった干潟には様々な生物が生息している

保護活動で復活した「三番瀬」
 全国的に浅瀬や干潟の減少が進む中、三番瀬のような数多くの「海浜生物」が生息できる環境は極めて少なく、魚類が産卵し幼魚が育成する場所として貴重な存在になっています。また、周辺の都市から排出される生活排水や産業排水などで「リン」や「窒素」が増加し、餌となるプランクトンが増殖する環境も整っています。アサリをはじめ様々な生物がそれを消費し、波による海水の循環が水質悪化を緩和・浄化する機能も果たすと共に、渡り鳥にとっても重要な中継地になっています。
 2006年(平成18年)12月に千葉県は「千葉県三番瀬再生計画(基本計画)」では「三番瀬」の自然環境の再生・保全と地域住民が親しめる海の再生を目指す計画が施行され、「三番瀬」の再生に関する基本的な方針、構ずるべき施策や推進方法を定めて、各事業に取り組みました。また2014年(平成26年)には「千葉県三番瀬再生計画(第3次事業計画)」によって更に新しい取り組みが施行されました。
 国際自然保護連合(IUCN)は地球規模で絶滅の恐れのある野生生物を選定した「レッドデータブック」を作成しましたが、千葉県も「三番瀬」に生息する動植物を含んだ「千葉県の保護上重要な野生生物―千葉県レッドデータブック―」を作成する事で保護活動推進に役立てています。
 1982年(昭和57年)にオープンした「ふなばし三番瀬海浜公園」は、潮干狩り場や芝生の広場、テニスコート、野球場などのスポーツ施設を備えた運動公園施設でした。2017年(平成29年)7月には新たに「三番瀬」の魅力を体感しながら環境について学べる施設「ふなばし三番瀬環境学習館」もオープンし、訪れる人達に「三番瀬」について学んでもらえる場が完成しました。
 一方、市川市でも2023年(令和5年)8月に「市民が海に直接触れる事が出来る場」によって「環境意識の醸成」してくれる事を目的に、干潮時でも水没している「塩浜三番瀬公園真野海岸」に幅100m、奥行き50mの干潟を整備する事など、三番瀬周辺ではさらに環境整備が進んでいます。
 生き物が生息する場、日本でも稀有な「三番瀬」を抱える千葉県は、三番瀬の保護を通して、「江戸前」を守る貴重な場所として更に認識されていく事でしょう。
ふなばし三番瀬海浜公園展望デッキ
ふなばし三番瀬海浜公園展望デッキ
展望デッキからは三番瀬が一望できる

(2024/5/10)
Vol.73 【ちばのへり】物語の舞台になった町 飯岡
物語の舞台になった町 飯岡
太平洋に面し、かつて津波被害も受けた町
 「旧飯岡町」は九十九里浜の東端にあたり、夏には海水浴やサーフィンの客で賑わっている2005年(平成17年)に「海上町」、「干潟町」と共に旭市に合併しました。
 「旧飯岡町」は「屛風ヶ浦」の西端にあたる高さ66mにも及ぶ台地と平地の高低差がある町で、下総台地の東端にあたる台地の農地周辺には「飯岡風力発電所」の5基の風車が設置され太平洋からの海風を受けて発電しています。
 農業が盛んで、なかでも「旧飯岡町」で栽培された「タカミメロン」は、「飯岡貴味メロン」として商標登録するなど千葉県の有数なメロンの産地にもなっています。また、「飯岡漁港」は銚子漁港に次いで千葉県第2位の漁獲高を誇る漁港で、漁港の周辺には親水型防波堤が整備され、更にタイヘイ湯尾を望む「いいおかみなと公園」が作られ、市民の憩いの場になっています。
 「旧飯岡町」のうち平地の地域は過去の大地震の際には大きな被害が出ています。1703年(元禄16年)に野島崎附近が震源地で関東地方を襲った「元禄大地震」では「旧飯岡町」にも5~6mの津波が襲い、多くの被害が出ました。また、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災でも、津波で死者13人、行方不明2人、家屋の全壊427棟、半壊335棟、床上浸水387棟と大きな被害が発生した事から、「旧飯岡町」の「萩園海岸」には「東日本大震災 旭市飯岡津波被災の碑」が建てられ、津波発生時の避難施設も建設されました。
 このように高低差がある「旧飯岡町」は、海の恩恵を受ける一方で災害の歴史も持った地域です。
飯岡灯台
台地の上には巨大の風車で風力発電が行われています
刑部岬に建てられた飯岡灯台

飯岡漁港
飯岡漁港
飯岡刑部岬展望館~光と風~

天保水滸伝と座頭市の町
 「旧飯岡町」を吸収した「旭市」の地域は、戦国時代の武将「木曽義昌」が晩年を過ごした地域で、江戸幕府開府前の1590年(天正18年)の徳川家康が関東移封になった事で、木曽義昌には下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に1万石が与えられ、着任した義昌はこの地域の街づくりに尽力しました。
 また、「旧飯岡町」では江戸時代後期の天保から嘉永にかけて下総地域で「飯岡助五郎」と「笹岡繁蔵」の二人の侠客の抗争があり、その顛末を講談として語られるようになったのが「天保水滸伝」です。
 現在の横須賀市に生まれた「飯岡助五郎」は、相撲部屋の「友綱部屋」に入門したものの、親方の急死で1年足らずで廃業し、当時地引網で大漁景気だった九十九里に渡って漁夫となりました。その後飯岡に移り、飯岡の玉崎神社の奉納相撲でその名を知られるようになり、当時銚子から飯岡まで縄張りを持っていた「銚子の五郎蔵」の代貸になりました。飯岡一帯の縄張りを譲り受け、かつ飯岡の網元の事業も成功させ、漁港整備をはじめ飯岡に大いに貢献しました。また十手も託されるようになった頃に、相撲部屋の「千賀ノ浦部屋」に入門した現在の東庄町の「笹川繁蔵」は1年で廃業し侠客となった人物で、次第に勢力を拡大するようになり、対立するようになりました。現在も玉崎神社には、飯岡助五郎の碑と助五郎が力比べや雇用の際に使用したと伝えられる「力石」があります。
 また、作家子母澤寛(しもざわかん)の小説が原作で、映画で有名になった「座頭市」の物語は子母澤が「飯岡助五郎」の取材で佐原市を訪れた際に、飯岡にまつわる話のひとつとして聞いた「盲目の侠客 座頭の市」の話を元にしたもので、実在した人物をモデルにしていた事から、九十九里ビーチラインの萩園海岸近くには「座頭市物語の碑」が建てられているなど、物語にまつわる地になっています。
玉崎神社
「座頭市」のモデルになった記念碑
玉崎神社境内にある飯岡助五郎の碑と力石

絶景観光スポット刑部岬
 飯岡町の台地部にあたるのは千葉県北部に広がる下総台地の東端にあたり、銚子市から旭市まで、海の浸食によって出来た崖「海食崖(かいしょくがい)」の南端、そして「九十九里浜」の最北端の境目にあたるのが飯岡町の「刑部岬(ぎょうぶみさき)」です。刑部岬がある「屛風ヶ浦」は高さ40~50mにもおよび、東は太平洋、南は九十九里浜、西は条件が揃えば「富士山」を望む事ができる絶景ポイントとして「関東の富士見百景」の他に「日本夜景遺産」「日本の朝日百選」「日本の夜景百選」「日本の夕日・朝日百選」にも選定され「上永井公園」という公園になっています。
 また、「あしたのジョー」の作者「ちばてつや」氏の父親は飯岡の出身で、戦後に一時「ちば氏」も飯岡に住んでいた事から、「刑部岬展望燗~光と影」のある「上永井公園」内には「あしたのジョー」で登場するキャラクターの石像が置かれています。
 旭市に合併する前の1989年(平成元年)から絶景ポイントを生かした「いいおかYOU・遊フェスティバルが開催」がされるようになり、10000発もの花火を打ち上げるなど「花火の絶景」も売りにして毎年10万人もの観光客を集めるイベントにまで成長しました。コロナ禍で中止が続いたものの2023年(令和5年)には4年ぶりに開催され多くの観光客を集め、「絶景の飯岡」が復活しました。
 このイベントが開かれていた事で、かつて「天保水滸伝」や「座頭市」の物語の舞台となった「旧飯岡町」は現代になっても物語の舞台になりました。それはドラマやアニメにもなった「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で、この物語の舞台になった事で若者たちがロケ地を巡る「聖地巡礼」をする観光客や絶景を楽しむ観光客で賑わっています。
 更に刑部岬に建設された飯岡灯台は1956年(昭和31年)に初点灯し、海の安全に役立っている他、2018年(平成30年)には一般社団法人日本ロマンチスト協会が行っている「恋する灯台プロジェクト」で、飯岡灯台も「恋する灯台」に認定され若い観光客を集めています。建設が進んでいる銚子連絡道路の横芝光町芝崎から匝瑳市横須賀の約5kmが2024年(令和6年)3月31日に開通し、既に計画されている旭市までの区間が開通すれば、銚子市内と都心の所要時間が更に短縮され更にアクセスが向上する事が期待されています。旭市に組み込まれ市の一部になっても、かつて物語になり飯岡は旭市の魅力的な観光スポットとして、これからも観光客を集め続けるでしょう。
打ち上げ花火上から
「打ち上げ花火上から・・・」の記念碑
「打ち上げ花火・・・」の撮影場所モニュメント

あしたのジョー
「あしたのジョー」のライバル力石徹の石像 
「あしたのジョー」矢吹丈の石像

(2024/4/10)
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