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チバビズ探訪 バックナンバー(73~84)
Vol.79 【ちばのへり】九十九里浜Ⅱ
九十九里浜Ⅱ
海水浴が「売り」になった千葉の海
 九十九里浜の最北端にあたる旭市飯岡町は、「天保水滸伝」の主役のひとり「飯岡助五郎」が活躍した地であり、小説、更に映画にもなった「座頭市」のモデルとなった人物がいた場所でもあります。他にも全国を測量して初の日本地図を完成させた「伊能忠敬」や歌人・小説家の「伊藤左千夫」の誕生した地など、多くの偉人を輩出した場所でもあります。
 明治時代に日本に招かれたドイツ人医師「エルウィン・フォン・ベルツ」が「療養」という考え方のもと「西洋風の海水浴の場所」として鎌倉の「七里ヶ浜」を紹介した事がきっかけで、その波が「海あり県」千葉にも広がっていきました。
 千葉県初の海水浴場が千葉市の稲毛海岸に作られた事で、徐々に太平洋を望む「日本最大級の砂浜」九十九里浜にも広がっていきました。また九十九里浜の一帯は、芥川龍之介、高村光太郎をはじめ多くの文人・文化人などに療養地・保養地としても愛され、各地に石碑が残されています。
 「海水浴」は「療養」からレジャーとして徐々に庶民にも広がり、海水浴に最適な「日本最大級の砂浜」を持つ「九十九里浜」には多くの「海水浴場」が誕生し、周辺には旅館や民宿などが徐々に増えると共に「海の家」も出店され、「海水浴客」でにぎわう千葉県の観光の目玉のひとつにまで成長しました。
 また、太平洋を望む「九十九里浜」は、あちこちで「釣り師」を見かける事が出来る「釣りスポット」しても人気です。特に太東港や片貝漁港、栗山川河口などは初心者にもお勧めの釣りスポットになっています。更に九十九里町には誰でも気軽に海釣り体験ができる施設まで出来ています。
座頭市と伊能忠敬
飯岡町の「座頭市」物語発祥の地記念碑
九十九里町にある伊能忠敬生誕の地に作られた銅像

白子町中里海水浴場
気軽に海釣りが体験できる釣り堀 
白子町中里海水浴場

外房はサーフィンのメッカ
 太平洋を望む「九十九里浜」は、1965年(昭和40年)頃から普及し始めた「サーフィン」にとって格好な波が押し寄せる場所だという事が浸透し始め、多くのサーファーが訪れるようになりました。中でも九十九里浜の南端にあたる一宮町の「釣ヶ崎海岸」は年間を通して良質な波が押し寄せる場所として知られ、九十九里浜の中でも最適なスポットとして多くのサーファーが集まるようになりました。
 九十九里町の「片貝海水浴場入り口」から一宮町まで海岸線を通る全長17.2kmの有料道路「九十九里有料道路」は、1972年(昭和47年)に開通しました。観光客誘致と地域開発を目的に作られた道路で、「サーフィンの聖地」として知られている事から別名「波乗り道路」とも呼ばれています。
 多くのサーファーが訪れるこの地域の全長66kmに渡る九十九里浜に沿った県道30号及び国道128号沿いは、サーファーを意識した飲食店やサーフショップなど数多く見かける事が出来ます。特に「一宮町」はサーファーをターゲットとした店舗が軒並み並んでおり、一目でサーフィンの町である事が分かるほどです。
 2021年(令和3年)にコロナ禍の中で開催された「東京オリンピック」では、既に国際大会も開かれていた一宮町の「釣ヶ崎海岸」がサーフィン競技会場に選ばれ、全世界に知られるようになりました。現在「釣ヶ崎海岸」にはオリンピック会場であった記念のモニュメントが置かれています。
釣ヶ崎海岸
サーファーが集まる一宮町の釣ヶ崎海岸
釣ヶ崎海岸に作られたオリンピック記念モニュメント

新たな観光資源開発に期待
 千葉県は国の「レクリエーション都市構想」に基づき、既に海水浴場が定着していた九十九里浜北部の山武市1975年(昭和50年)に大都市圏等から生じるレクリエーション需要を充足するため、山武市蓮沼におよそ4kmにわたるエリアを整備して「蓮沼海浜公園」を作りました。蓮沼海浜公園は公園施設のほか、東京ドームの1.5倍位の面積を持つ千葉県最大級のプール「蓮沼ウォーターガーデン」があります。また、「こどものひろば」には展望塔を備えた遊園地、更に宿泊施設「蓮沼ガーデンハウス マリーノ」、他にもテニスコート、野球場、サッカー場、パークゴルフ場、グランドゴルフ場、体育館などのスポーツ施設を持ち、地元はもとより、観光近郊からのレジャー客を集めていました。そして、開業以来人気を博した「蓮沼海浜公園」は2021年(令和3年)には施設の老朽化や観光やレジャーの多様化に対応するため、大幅なリニューアルが計画され、現在のニーズに合った施設として生まれ変わり、家族連れをはじめ多くの観光客が訪れています。
 一方遅れて海水浴場をオープンさせた白子町の宿泊施設は、後発であるゆえ苦戦を強いられ、軽井沢にならってテニスに注目し大きく舵を切って差別化を図り成功を納めました。更にテニスブームが落ち着いて来ると、グランドゴルフやゲートボール、サッカー場など新たなスポーツにも取り組み、九十九里浜のほかの地域との差別化に成功しています。
 2011年(平成23年)に発生した東日本大震災後の夏は「飯岡海水浴場」と「矢指ヶ浦海水浴場」の2箇所は津波被害で開場する事が出来ず、2020年(令和2年)から始まった「コロナ禍」では全ての海水浴場が閉鎖になるなど、パンデミックや災害が原因で観光資源となっている海水浴場が閉鎖され大きな打撃を受けてきました。
 夏のレジャーの代表として広く浸透し、若者達はこぞって肌を黒く焼いていましたが、世の中の流れが「美白」に向き、更に地球温暖化やエルニーニョ現象の影響で100年前の夏と比べてより気温が高くなっており、皮膚への影響も大きくなった事で「海水浴離れ」も進み「海水浴場」はかつての賑わいを見せる事がなくなってしましました。白子町の事例の様に、「海あり県千葉」の新たな観光資源を開発していく事に期待したいと思います。
蓮沼海浜公園
様々なレジャー施設が揃った蓮沼海浜公園
テニスの合宿や大会が行われる白子町のテニスコート

飯岡海水浴場と矢指ヶ浦海水浴場
遊泳禁止になった飯岡海水浴場
遊泳禁止になった矢指ヶ浦海水浴場

(2024/10/10)
Vol.78 【ちばのへり】九十九里浜Ⅰ
九十九里浜Ⅰ
5市4町1村を貫く日本最大級の砂浜
 千葉県の東側、太平洋に面し、刑部岬から太東岬までの全長66km、旭市、匝瑳市、横芝光町、山武市、九十九里町、大網白里市、白子町、長生村、一宮町、いすみ市の5市4町1村を貫く「日本最大級の砂浜」が九十九里浜です。日本書紀では「玉の浦」と記され、北端には「玉崎神社」、南端には「玉前神社」があります。
 「九十九里」という名前は「源頼朝」の命でこの「玉の浦」に1里ごとに矢を立てたところ、99本に達したという伝承があり、「九十九里矢指ヶ浦」といわれるようになったとの説が有名です。また、山武市の蓮沼には「箭挿(やさし)神社があり、別名「矢指浦」ともいわれています。
 九十九里浜の砂浜は、かつて香取神宮の目の前に広がっていた内海「香取海」や「利根川」から流出した土砂、更に「屛風ヶ浦」や「太東崎」から削り出された土砂が潮流で運ばれ、6000年をかけ堆積して出来たものですが、近年その砂浜が減少するという事象が起きています。
 1970年(昭和45年)以後に屛風ヶ浦や太東崎の崖が波によって削られるのを防ぐため「消波堤」を築き、更に漁港に防波堤の整備を行った事で潮の流れが変わってしまった事が原因と考えられています。
 このままでは今後30年間で砂浜の幅が最大で40mも後退するという見通しが示され、千葉県はこの浸食被害を防ぐため、砂の流出を防ぐコンクリート製の人工岬「ヘッドランド」の設置や、外部からの砂を供給する「養浜」といった対策を始めました。しかし今だ改善されておらず、旭市の「飯岡海水浴場」は砂浜の浸食が進んで海流や海底の地形が遊泳には危険と判断されており、2009年(平成21年)以降海水浴場は開設されていません。
 「ヘッドランド」は九十九里浜北部の旭市にある「中谷浜」から匝瑳市の「堀川浜」までの間に12基、南部の一宮町に10基の併せて22基が設置されていますが、匝瑳市の「堀川浜海水浴場」、横芝光町の「木戸浜海水浴場」も海岸浸食の状態に変化がなく、安全な海水浴場の開設が困難だとして2024年(令和6年)は開設しませんでした。
玉崎神社と玉前神社
旭市にある玉崎神社
一宮町にある玉前神社

箭挿神社とヘッドランド
山武市蓮沼にある箭挿神社 
旭市の中谷里浜に作られた人工岬「ヘッドランド」

津波の被害を受けてきた九十九里浜
 房総半島は利根川と江戸川に囲まれた半島で、その周囲はおよそ420km、そのうち九十九里浜の長さは南北で66kmになっており、千葉県の周囲のおよそ15.7%を占める「日本最大規模の砂浜」になっています。
 一方房総半島沖には、地中を流れる「マントル」の表面を覆う岩盤の「太平洋プレート」「大陸プレート」「フィリピン海プレート」の三つの「プレート」が接する「プレートの三重点」が存在しています。「フィリピン海プレート」の下に「太平洋プレート」が沈み込む際に、その領域が破壊され比較的小さな「地すべり」が発生した場合、九十九里地域を大きく浸水させる津波が発生する可能性がある事が分かったそうです。この研究によって歴史に記録が残っていない1000年前にも発生した津波の痕跡が発見され、それは房総半島沖で発生した巨大地震によって津波が発生した物だとわかったそうです。
 一方、記録に残っている1703年(元禄16年)に発生した「元禄地震」では、千葉県で6,000人もの死者が出たとされ、そのうち津波によって九十九里町、長生村、白子町を併せて少なくとも2,000人以上が津波の被害にあったとされています。
 また、まだ記憶に新しい2011年(平成23年)3月に発生した「東日本大震災」では、九十九里浜の最北端旭市飯岡町に7.6mもの津波が押し寄せ、千葉県で唯一死者が出るほどの被害が出ました。旭市は二度とこのような悲惨な事が起きないようにするため、飯岡町の「荻園海岸」には「伝えつなぐ大津波」と書かれた慰霊碑が作られたほか、市内に万が一の津波から身を守るための津波避難タワーを4箇所、津波から身を守れる築山(つきやま)を中心に「日の出山公園」が作られ、市民の避難場所が用意されました。
荻園海岸
旭市飯岡町の荻園海岸
荻園海岸に作られた慰霊碑

津波避難タワー
市内に4箇所に作られた津波避難タワー
日の出山公園に作られた避難施設

守るべき「県民の誇り」九十九里浜
 九十九里浜は、その全域が「千葉県立九十九里自然公園」に指定されており、1987年(昭和62年)に「社団法人日本の松を守る会」が選定した「日本の白砂青松100選」に選ばれたほか、大日本水産会などで作られた選定委員会が選定した「日本の渚100選」にも選ばれた景勝地です。
 九十九里沖は東シナ海を日本列島に沿って北上し、太平洋に入って九十九里浜に沿って流れる「黒潮」が日本列島を離れる場所で多くの魚介類や鳥類が生息している場所でした。また、九十九里浜の中央部から太平洋へと流れ出る「栗山川」は、「鮭回帰の南限」とされています。更に一宮町はウミガメの生息地になっているほか、イルカの一種「スナメリ」が生息している地域があるなど、自然豊かな場所、あるいは避暑地として広く文化人にも愛されてきました。
 環境省と千葉県が発行している「絶滅のおそれのある野生生物」に関する保全状況や分布、生態、影響を与えている要因等の情報を記載した「レッドデータブック」に記載されている「絶滅危惧種」も多数確認されるなど、「九十九里浜」は動植物の重要な生息地にもなっています。また「日本の白砂青松100選」に選定されていますが、防砂目的で植林されたクロマツは「松くい虫」などの影響を受け減少方向であるそうです。
 有史以前に出来た日本最大級の砂浜は、津波による災害、人工物による環境の変化、気候変動による変化など様々な要因が重なり、危機が訪れています。取り返しがつかない事態に陥る前に千葉県民が誇れる「九十九里浜」を守っていきたいものです。
九十九里浜
刑部岬から望む九十九里浜
「鮭の回帰南限」とされ九十九里の中間地点を流れる栗山川

一宮海岸
アカウミガメの生息地とされる一宮海岸
長生村の海岸では砂浜を普及するための工事が行われていた

(2024/9/10)
Vol.77 【ちばのへり】房総フラワーライン
房総フラワーライン
日本の道百選に選ばれた「房総フラワーライン」
 館山市「下町交差点」から「南房総市和田町の房総フラワーライン入り口」交差点までの内房から外房の房総半島先端付近を通過する約46kmの道路は「房総フラワーライン」と呼ばれ、1月から春にかけては「菜の花」、夏には「マリーゴールド」と季節の花が道路を彩り訪れる観光客の目を楽しませています。
 1986年(昭和61年)8月に道路の意義・重要性について関心を持ってもらう機会として制定されたのが「道の日」で、それを記念して1986年度(昭和61年度)と1987年度(昭和62年度)に建設省(現国土交通省)と「道の日」実行委員会が制定した日本の特色ある優れた道路を「日本の道百選」として104本の道路が選ばれました。
 千葉県で唯一認定されたのは「房総フラワーライン」のうち館山市伊戸から相浜交差点までの約6kmでした。この区間にある防砂用のクロマツ林が広がっている「平砂浦海岸」は、「社団法人日本の松の緑を守る会」が選定した「白砂青松100選」のひとつにも選ばれています。
 「日本の道百選」に選ばれた「下町交差点」から「相浜交差点」までの県道257号線は「第1フラワーライン」、「相浜交差点」から先の一部太平洋岸を通って外房の南房総市和田町の「房総フラワーライン入り口」までの区間は「第2フラワーライン」と呼ばれています。その名の通り道路のキーとなる「花」を眺めながらのドライブは南国の地を訪れた感を醸し出し、観光客を魅了してくれています。
小湊港と天津港
春には菜の花、夏にはマリーゴールドが咲くフラワーライン
日本の道100選 房総フラワーラインモニュメント

第1フラワーライン
 第1フラワーラインは、館山の市街地を通る県道257号線の「下町」交差点から始まります。257号線を西方向に進むと左手に館山城が見えてきます。館山城は1580年(天正8年)に里見義頼が築城した城で、1614年(慶長19年)に廃城となり取り壊されました。1781年(天明元年)に稲葉正明が館山藩主となったものの、城は再建されませんでした。1982年(昭和57年)に天守を再建するにあたり里見氏の模擬天守閣を再現し、同時に私立博物館も建設されました。模擬天守閣は里見氏を題材にした「滝澤馬琴(曲亭馬琴)」書いた「南総里見八犬伝」の「八犬伝博物館」として八犬伝にまつわる様々な物を展示紹介しています。
 三叉路になっている「宮城」の交差点の先には、海上自衛隊の「館山航空基地」が見えてきます。交差点を道なりに左に進むと内房に沿って進む事になります。しばらく進むと右手に「見物海岸(けんぶつ海岸)」が見えてきます。「見物海岸」という名前の由来は「富士山を見物するのには良い場所」という由来だそうです。ここの海岸では古くは元禄地震、更に関東大震災で隆起した海岸段丘を見る事が出来ます。更に洲崎方面へと進むと左手には石橋山合戦で敗れた源頼朝が上陸した場所とされている「源頼朝公上陸の地碑」があり、頼朝が矢で突いて水が湧き出たとされる「矢尻の井戸」があります。また、その先には右手に洲崎灯台、そして左手には「鳥居の中から富士山が拝める」とインスタスポットで知られている洲崎神社があります。
 右手に海を見ながら進むと、天気の良い日には伊豆半島や伊豆大島などを望む事ができます。更に平砂浦に向かって進むと左手にはホテルやゴルフ場、「道の駅アロハガーデンたてやま」が見えてきます。道路の両側には「フラワーライン」というその名の通り、道の両脇に植えられた菜の花やマリーゴールドなどの花を見る事が出来ます。右手にはクロマツ林が続く平砂浦海岸が続きます。この平砂浦海岸が終わる場所が相浜交差点です。
 この「第1フラワーライン」は南房総を訪れる観光客にとっての「観光道路」となっており、また毎年開催される「館山若潮マラソン」のコースにもなっています。
第1フラワーライン
フラワーラインのスタート地点下町交差点
フラワーラインは宮城交差点で海沿いの道へと続く

フラワーラインから伊豆大島
条件が良ければフラワーラインから伊豆大島が見える
相浜交差点が第1フラワーラインの起点を示す標識

平砂浦海岸
道の駅 アロハガーデンたてやま
平砂浦海岸

第2フラワーライン
 館山市の「相浜交差点」から房総半島の先端付近を通り外房まで通っている県道410号線が「第2フラワーライン」とされています。花の季節には所々で右手に太平洋を望む事が出来、また左手には岩礁を見る事が出来ます。その先県道410号線は右に折れ海岸線を進み、野島崎方面へと進む事になりますが、「第2フラワーライン」はまっすぐ進み白浜町を抜けていきます。道沿いの所々には「花摘み」ができる花畑を見る事が出来ます。
 そのまま進んでいくと左手には「旧長尾幼稚園・小学校」をリノベーションした施設「シラハマ校舎」が見えてきます。校舎はレストランとコワーキングスペース、シェアオフィスそしてゲストハウス。校庭には無印良品のミニ別荘が建てられています。
 その先左手に2010年(平成22年)に一部開通した「安房グリーンライン」の入り口ががあります。「安房グリーンライン」は南房総市白浜から館山市を通り同市の千代まで続いている広域農道です。この農道の沿線には工事の際に発見された200万年前の巨大地震の痕跡「白浜の海底地すべり地層」を見る事が出来ます。また、館山市内の農道沿いには「道の駅 グリーンファーム館山」が2024年(令和6年)2月にオープンしました。
 「安房グリーライン」の交差点を過ぎてしばらく走ると「房総フラワーライン」は再び県道410号線と合流し、南房総市千倉町に入ります。千倉町のメインストリートを抜けると、道は再び海岸に沿って北上します。
 南房総市白子に入ると「房総フラワーライン」は再び県道410号線を右にそれ、県道297号線に合流します。途中北緯35度最東端の標識を通過し「道の駅ローズマリー公園」を通過すると、国道128号線と合流する今回の「房総フラワーライン」の終点「房総フラワーライン入り口」交差点に到着します。
 車で南房総を訪れる観光客が必ず通るであろう「房総フラワーライン」周辺には、多くの観光スポットや風光明媚なポイントが存在し、南房総の観光道路として外せない道になっています。一部生活圏を通るようなエリアも、観光客が楽しめるように進化できれば、「房総フラワーライン」を通ること自体が観光の目的になってくれるかもしれません。「房総フラワーライン」沿線エリアの更なる進化に期待したいと思います。
シラハマ校舎
青木繁が滞在した小谷家住宅
シラハマ校舎

第2フラワーライン
安房節発祥の地碑
外房側の第2フラワーライン入り口の交差点

(2024/8/9)
Vol.76 【ちばのへり】天津小湊
天津小湊
のどかな漁村の風景を残している天津小湊
 「1958年(昭和33年)に内房の富津岬から外房の太東崎までの海岸線は「南房総国定公園」に指定されました。旧天津小湊町は鴨川市北東部にあたる場所で、この「南房総国定公園」に指定されているエリアに含まれる場所にあるます。
 「旧天津小湊町」は、南は太平洋に面し北には清澄山系と房総丘陵が大多数を占め、市街地は海岸線に沿って広がっているのみで、耕作可能地も少ない事から漁業が中心になっています。また、元々この地域は1955年(昭和30年)に旧天津町と旧小湊町が合併してできた町です。「天津」は「海女のいる港」、「小湊」は「良港」を指すといわれ、いずれも名前からして漁業の町だという事を示しています。この「旧天津小湊町」は2005年(平成17年)には鴨川市に合併されて消滅しました。
 かつては南房総までの街道は、現在の千葉市中央区浜野から始まり内房を通って南下し館山市北条までに至る「房州往還」と、「房州往還」から分離して外房を南下して館山市北条に至る「伊南房州通往還」がありました。かつてはこの地域を訪れるために「伊南房州通往還」が使われ、旧天津小湊町は「伊南房州通往還」が通る街道筋の町でした。
 「伊南房州通往還」は狭い平地の海岸線を通っており、周辺に家が密集し道幅は狭いため、自動車が通る幹線道路にはならない環境のため、内陸部の房総丘陵に多くのトンネルを掘って広い道路を通した国道128号線が新たに作られました。そのため、観光客は国道128号線を通るため、幹線道路から離れた旧天津小湊地区の中心はのどかな漁村の風景を残した街並みになっています。
小湊港と天津港
小湊港
天津港

国道128号
トンネルを掘って作られた国道128号
漁村の風景を残す街並みの背後に国道沿いの高層マンション

漁業の町そして日蓮の生誕地
 「旧天津小湊町」の地域は鎌倉時代以降「東条氏」の所領で、後に里見氏の支配となり、江戸時代には幕府直轄地となりました。この地域は江戸時代の初期に紀伊国(現在の和歌山県と三重県西部)の漁民が移住してイワシ漁を始めたとされ、漁業の拠点として知られていました。また、東北地方と江戸を結ぶ「東廻海運」の避難港としても使われ、旧小湊町には「東廻海運」の番所が置かれ、廻船の援助と監視にあたっていました。
 この地域にある「清澄寺(せいちょうじ)」は、平安時代の771年(宝亀2年)に旅の僧が訪れ「虚空菩薩」を守る寺を祀るため創建され、山岳信仰の霊場となっていました。その後「清澄寺」は天台宗の大きな寺となり、「日蓮」はこの「清澄寺」で修業し「出家得度」して「日蓮宗を立教開宗」した事で知られています。「清澄寺」は後に徳川幕府二代将軍「徳川秀忠」の命により「真言宗」に改宗し、1949年(昭和24年)には更に「日蓮宗」に改宗して「日蓮宗の大本山」になりました。
 また、小湊は「日蓮」誕生の地である事から、「日蓮」の弟子「日家(にけ)」が生家跡に「高光山日蓮誕生寺」を建立しました。しかし「誕生寺」は1498年(明応7年)の「明応地震」と1703年(元禄16年)に発生した「元禄地震」の二度の大地震と大津波で、生家跡地域は海中に沈んでしまったため、現在の場所に移転されました。
 この「清澄寺」と「誕生寺」は山梨県の総本山「久遠寺」・東京の大本山「池上本門寺」とともに「日蓮宗四霊場」と呼ばれています。
 明治時代になると鉄道の整備が始まり、南房総も鉄道の整備が始まりました。1917年(大正6年)に発足した小湊鉄道株式会社は、「小湊駅」までを結ぶ計画で設立された鉄道だった事から、社名に「小湊」の名前が入っています。しかし、設立当初から第一次世界大戦の影響などで資金が思うように集まらず、1927年(昭和2年)にようやく現在の「五井駅」―「上総中野駅」間が開通しました。その後資金不足、更に清澄山系の岩盤が固く、当時の鉄道技術では限界だった事、加えて「国鉄木原線(現いすみ鉄道)」が「上総中野」に接続した事などの理由で、当初の計画は実現せずに現在の路線に留まりました。
 また後に国鉄(現JR東日本)の外房線は1929年(昭和4年)には上総興津駅―安房鴨川駅」間が延伸して「安房天津駅」と「安房小湊駅」も開業し、この地域で獲れた水産物の消費地への輸送が可能になり環境が大きく変化しました。
清澄寺と誕生寺
日蓮が修業したとされる清澄寺
日蓮の誕生の地小湊に作られた誕生寺

小湊鉄道の終点上総中野駅といすみ鉄道の終点大原駅
現在の小湊鉄道の終点上総中野駅
小湊鉄道と連結しているいすみ鉄道の終点大原駅

風情を残す観光地
 旧小湊町にある「妙の浦」という海域は、「日蓮」が誕生した際に鯛が飛び跳ね、ハスの花が咲き乱れた言い伝えが残っているそうです。そこから地元民はこの海域での漁を禁じたことに由来して「妙の浦」転じて「鯛の浦」と呼ぶようになりました。実際この地域は真鯛が群泳しており「国の天然記念物」に指定され、今でも禁漁になっています。
 鯛の群泳は古来より名物として知られており、昔から手漕ぎの和船で鯛見物をさせていました。昭和になってこの事が広く知られるようになり、1952年(昭和27年)からは観光遊覧船の運航が行われるようになりました。また隣接している誕生寺の門前には、旅館や土産物店が建ち並び、観光地として大変賑わいました。
 様々な土産物がある中で、今でも続く代表的なのは大正時代に考案された「鯛せんべい」で、禁漁となっている「鯛の代わりの土産物」として考案され、今でも郷土菓子として変わらず販売されています。
 南房総沿岸の岩場は、満潮時は荒波で揉まれ、干潮時には天日や潮風にさらされる厳しい環境です。千葉はそのような厳しい環境の岩場で育つ「ひじき」の産地としても知られています。天津小湊地域も産地のひとつで、毎年2月頃からの大潮の時期には「ひじき狩り」が行われ、春を伝える風物詩として毎年メディアでも紹介されています。収穫されたひじきは「名産品」として販売され、この地域でひじきを専門に扱う7社は「房州ひじき生産会」を結成し、7社が販売するひじきは「千葉のブランド水産物」に認定されています。
 鴨川は観光地として知られ、市の中心部には多くのホテルや旅館がありますが、小湊地区も元々「誕生寺」「鯛の浦」を抱える観光地だった事から、周辺に小さなホテル街があり、かつては多くの観光客で賑わいました。また、周辺の海水浴場に比べ規模は小さいものの、夏には混雑しない「穴場」の海水浴場として知られる「城崎」と「内浦」の二つの海水浴場は穴場狙いの海水浴客で賑わっています。
 かつて誕生寺参拝客や鯛の浦など観光客で賑わった旧小湊町は、かつてのような賑わいは見られなくなったものの、漁村の風情を残す観光地として愛され続けるでしょう。
鯛の浦遊覧船
鯛の浦遊覧船
内浦海岸海水浴場

鯛せんべい
城崎海水浴場
鯛せんべい

(2024/7/10)
Vol.75 【ちばのへり】野島埼
野島埼
国の登録有形文化財「野島埼灯台」
 「野島埼」は房総半島の最南端の「旧白浜町」にあり、2006年(平成18年)に行われた「平成の大合併」で周辺の町と合併し、南房総市になりました。
 かつて野島埼はかつてその景観から「文人墨客」が好んで訪れ、多くの詩や歌が残されています。旧白浜町内を流れる「長尾川」の河口近くには、1888年(明治21年)に地元の寄付で作られた石積みの三重橋「眼鏡橋」が残されています。この橋は作家の林芙美子が「支那風な眼鏡橋」と描写しており、白浜を訪れた林はこの橋に「異国」を感じたのではとされています。
 一方、旧白浜町のシンボル「野島埼灯台」は1870年(明治3年)に建てられ、東京湾に入る船舶の目印として154年もの間大切な役割を果たし続けています。またこの灯台は、全国に16基しかない「参観灯台」という一般人が昇る事の出来る灯台です。多くの観光客はその景色に魅了されています。
 1866年(慶応2年)5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と結んだ「改税条約(江戸条約)」に建設する事を約束した8ヶ所の灯台のひとつで、昔から野島埼周辺は海難事故が多発する海域として知られており、東京湾を出入する船舶にとって重要なポイントだったため他の灯台に先立って建設され、1870年(明治3年)に日本の「洋式灯台」として2番目に初点灯しました。この野島埼灯台は現在日本の灯台50選に選ばれ、国の登録有形文化財に登録されています。
めがね橋と野島埼灯台
めがね橋(眺尾橋)
房総半島最南端の地碑と野島埼灯台

地続きになった「野島」
 野島埼が最初に歴史の中に登場するのは、1180年(治承4年)に「石橋山の戦い」に敗れ房総半島に逃げ延びた「源頼朝」の逸話でした。頼朝は野島埼にも立ち寄ったとされ、岬に祀られている弁天堂の傍らにある岩に「野島山」の文字を刻み、武運再興の願掛けをしました。その時突然の雨で頼朝は雨を凌ぐため身を寄せたとされている「頼朝の隠れ岩屋」があります。この岩屋には深海に棲む大蛸が「海神」として祀られており、この大蛸に参拝する事で海面を鎮め、豊漁を授け、幸をもたらすとされ、アワビやサザエが供えられ、願をかけた賽銭が貝の中に入れば開運が訪れるとされています。
 室町時代に「常陸国(現茨城県)」に所領を持っていた里見家兼の子「義実」は1441年(嘉吉元年)に野島埼に上陸し、白浜に居城をかまえ房総を平定し、その後里見氏は江戸時代までその勢力を持っていました。白浜にある「三峰山 杖珠院(さんぽうさん じょうじゅいん)」は「里見義実」の墓所になっており、里見氏の菩提寺になっています。
 野島埼は古くは房総半島とは離れた島で「野島」と呼ばれていましたが、1703年(元禄16年)に起きた「元禄大地震」で4m以上も土地が隆起し、地続きとなったという説があります。しかし地震の7か月後に書かれたかつてあった法界寺の届書に「野島埼は津波の跡に地形が変わった」と記されており、地震以前から野島埼は存在し、既に一部が地続きであったという説もあるようです。
 太平洋戦争後1950年代(昭和25年代)に入って高度経済成長に突入すると温泉掘削が増え、千葉県内でも盛んに温泉が掘削されました。千葉県の温泉は非火山性のため温度は低めなものの、治療の目的に供しうることのできる「療養泉」が多く、旧白浜町でも1959年(昭和34年)の温泉が掘削され「白浜温泉郷」が誕生しました。
 また、1956年(昭和31年)には「房州白浜」を「観光」で売り出すために創作された、千葉県を代表する民謡の「白浜音頭」が作られ、野島埼附近に「白浜音頭発祥の地碑」が建てられるなど、観光の推進に余念がありませんでした。
頼朝の隠れ岩屋
頼朝の隠れ岩屋
頼朝の隠れ岩屋内にある大蛸

里見義実上陸の地碑
里見義実上陸の地碑
白浜音頭発祥の地碑

コロナ禍を抜けた人気観光スポット
 現在の野島埼一帯は「白浜野島埼園地」という名前で千葉県立の自然公園施設として整備されており、「屏風岩」や「洗濯岩」など、地中のプレートの動きで隆起した様々な形をした奇岩を見る事が出来、太平洋の景色と共にダイナミックな景観を見せています。周辺は海水浴場や別荘地、レジャー施設、マリンリゾートが多く並び、今では観光地・避暑地になりました。
 なかでも野島埼灯台一帯は散策道が整備され、入り口にある下立松原神社は頼朝祈願をかけた事で大願成就できた縁起の良い神社がある事から、白浜漁協は近くに全ての出発点からの成功を願って、「かっとびくん」というトビウオのオブジェを建てました。ほかにも白浜海洋美術館、灯台資料展示館「きらりん館」、頼朝の隠れ岩屋、厳島神社、三峯神社、稲荷社、金比羅宮など一帯に様々な神社や施設があり、岬先端の岩礁には「ラバーズ・ベンチ」が整備されており、朝日と夕日、そして天の川を見る事が出来るデートスポット、インスタスポットとして人気を集めています。
 また、南房総は古くから素潜りの伝統があり、5~9月頃にかけて白浜でも多くの海女(あま)さんが海に潜ります。1964年(昭和39年)からは毎年7月に漁業の安全と豊漁祈願を目的に千葉県最大の「夜祭り」の「海女まつり」が開催されています。夏の風物詩として行われていた「海女まつり」ですが、2020年(令和2年)に発生したコロナ禍の影響で中止を余儀なくされ、2023年(令和5年)に4年ぶりに開催されました。
 2019年(令和元年)9月に房総半島に大きな被害を及ぼした台風15号では、野島埼の宿泊施設も大きな被害を受け、コロナ禍でも大きな被害を受けましたが、コロナ禍の終焉でようやく正常に動き始めました。房総半島の中でも指折りの「観光資源」を持つ野島埼は、これからも千葉県の人気の観光スポットとして賑わっていくでしょう。
白浜温泉郷
白浜温泉郷に立ち並ぶホテル街
かっとびくん

野島埼の先端の岩場に設置されたラバーズ・ベンチ
野島埼の先端の岩場に設置されたラバーズ・ベンチ
若い海女の像

(2024/6/10)
Vol.74 【ちばのへり】三番瀬(さんばんぜ)
三番瀬(さんばんぜ)
魚介類が豊富な「三番瀬」
 「浦安市、市川市、船橋市、習志野市に跨る東京湾の干潟は三番瀬と呼ばれています。「三番瀬」は「さんばんせ」と言われがちですが、正しくは「さんばんぜ」で古くから漁業関係者が使用していた「漁場の通称名」からそう呼ばれるようになりました。現在は三番瀬東端のエリアは船橋航路や千葉港、西端には猫実川河口や日の出の埋め立て地が広がっていますが、埋め立て地が出来る以前は、干潟や浅瀬が旧江戸川の河口付近まで広がっていました。現在は市川市と船橋市の沖に広がる浅瀬や干潟を総称して「三番瀬」と呼ぶことが一般的になっています。
 「三番瀬」がある海域は、水深5m以下の浅瀬が3~4kmの範囲で広がっています。この浅瀬は潮の干満によって土の中に酸素が供給されているためハゼやアサリ、カニなどの生物が多く生息し、それを目当てに水鳥たちが集まります。更に周辺には「谷津干潟」や「行徳湿地」など、渡り鳥がやって来る「干潟」や「水辺」も広がっています。
 東京湾の中でも屈指の漁場のひとつで、海苔、アサリ、スズキ、カレイ、イワシなどが漁獲され「江戸前」として流通していました。また、江戸時代には「三番瀬」は「御菜浦(おさいのうら)」と呼ばれ、将軍家に新鮮な魚介類を納める重要な役割を果たしていました。
ふなばし三番瀬と谷津干潟
ふなばし三番瀬
谷津干潟

海水の増減によって生まれた「三番瀬」
 「12万年前の東京湾は現在より海水面が高くなっていたため、房総半島は島になっており、この頃の東京湾は「古東京湾」と呼ばれています。7万年前から1万年前までの「最終氷期」と呼ばれる旧石器時代になると、海水面は現在よりずっと低く、東京湾の入り口の浦賀水道から北は陸地になっており、「利根川」と利根川支流の「渡良瀬川」が合流し大規模な峡谷を作っていました。その後6000年前には海面が現在よりおよそ4m上昇し、東京湾は現在の埼玉県川越市付近まで湾が拡がっていました。
 今から3000年前には「縄文海退」が始まり、「利根川」「渡良瀬川」流域は広大な氾濫域や低湿地になりました。
 有史時代に入ると氾濫域や低湿地だった土地は次第に人工的に埋立てが行われ、江戸時代には幕府によって沿岸の埋立てが更に進み、江戸後期には外国船来航に対する湾岸防衛のために品川沖に「台場」も築かれるなど、東京湾は人の手によって変化していきました。
 東京湾で豊富に獲れる魚貝類は、世界最大の人口と言われた江戸の庶民の食を満たし、獲れる魚貝は「江戸前」と呼び名が誕生しました。
 明治時代以降になると東京湾沿岸や流入する河川の流域は都市化・工業化が進み、埋め立て地拡大に伴って「干潟」や「浅瀬」が大幅に減少すると共に水質悪化の深刻化が進み、1970年代(昭和40年代~50年代)にピークを迎えました。そのため海の生き物は激減し「死の海」と呼ばれる状態にまでなってしまいました。1980年代(昭和55年~60年代)になってようやく環境保全の取り組みによって水質の改善がみられるようになり、現在は徐々に生態系を取り戻しつつあります。
東京湾
江戸時代の東京湾
現在の東京湾を望む

干潟
かつての市川の干潟は工業地帯が作られた
綺麗になった干潟には様々な生物が生息している

保護活動で復活した「三番瀬」
 全国的に浅瀬や干潟の減少が進む中、三番瀬のような数多くの「海浜生物」が生息できる環境は極めて少なく、魚類が産卵し幼魚が育成する場所として貴重な存在になっています。また、周辺の都市から排出される生活排水や産業排水などで「リン」や「窒素」が増加し、餌となるプランクトンが増殖する環境も整っています。アサリをはじめ様々な生物がそれを消費し、波による海水の循環が水質悪化を緩和・浄化する機能も果たすと共に、渡り鳥にとっても重要な中継地になっています。
 2006年(平成18年)12月に千葉県は「千葉県三番瀬再生計画(基本計画)」では「三番瀬」の自然環境の再生・保全と地域住民が親しめる海の再生を目指す計画が施行され、「三番瀬」の再生に関する基本的な方針、構ずるべき施策や推進方法を定めて、各事業に取り組みました。また2014年(平成26年)には「千葉県三番瀬再生計画(第3次事業計画)」によって更に新しい取り組みが施行されました。
 国際自然保護連合(IUCN)は地球規模で絶滅の恐れのある野生生物を選定した「レッドデータブック」を作成しましたが、千葉県も「三番瀬」に生息する動植物を含んだ「千葉県の保護上重要な野生生物―千葉県レッドデータブック―」を作成する事で保護活動推進に役立てています。
 1982年(昭和57年)にオープンした「ふなばし三番瀬海浜公園」は、潮干狩り場や芝生の広場、テニスコート、野球場などのスポーツ施設を備えた運動公園施設でした。2017年(平成29年)7月には新たに「三番瀬」の魅力を体感しながら環境について学べる施設「ふなばし三番瀬環境学習館」もオープンし、訪れる人達に「三番瀬」について学んでもらえる場が完成しました。
 一方、市川市でも2023年(令和5年)8月に「市民が海に直接触れる事が出来る場」によって「環境意識の醸成」してくれる事を目的に、干潮時でも水没している「塩浜三番瀬公園真野海岸」に幅100m、奥行き50mの干潟を整備する事など、三番瀬周辺ではさらに環境整備が進んでいます。
 生き物が生息する場、日本でも稀有な「三番瀬」を抱える千葉県は、三番瀬の保護を通して、「江戸前」を守る貴重な場所として更に認識されていく事でしょう。
ふなばし三番瀬海浜公園展望デッキ
ふなばし三番瀬海浜公園展望デッキ
展望デッキからは三番瀬が一望できる

(2024/5/10)
Vol.73 【ちばのへり】物語の舞台になった町 飯岡
物語の舞台になった町 飯岡
太平洋に面し、かつて津波被害も受けた町
 「旧飯岡町」は九十九里浜の東端にあたり、夏には海水浴やサーフィンの客で賑わっている2005年(平成17年)に「海上町」、「干潟町」と共に旭市に合併しました。
 「旧飯岡町」は「屛風ヶ浦」の西端にあたる高さ66mにも及ぶ台地と平地の高低差がある町で、下総台地の東端にあたる台地の農地周辺には「飯岡風力発電所」の5基の風車が設置され太平洋からの海風を受けて発電しています。
 農業が盛んで、なかでも「旧飯岡町」で栽培された「タカミメロン」は、「飯岡貴味メロン」として商標登録するなど千葉県の有数なメロンの産地にもなっています。また、「飯岡漁港」は銚子漁港に次いで千葉県第2位の漁獲高を誇る漁港で、漁港の周辺には親水型防波堤が整備され、更にタイヘイ湯尾を望む「いいおかみなと公園」が作られ、市民の憩いの場になっています。
 「旧飯岡町」のうち平地の地域は過去の大地震の際には大きな被害が出ています。1703年(元禄16年)に野島崎附近が震源地で関東地方を襲った「元禄大地震」では「旧飯岡町」にも5~6mの津波が襲い、多くの被害が出ました。また、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災でも、津波で死者13人、行方不明2人、家屋の全壊427棟、半壊335棟、床上浸水387棟と大きな被害が発生した事から、「旧飯岡町」の「萩園海岸」には「東日本大震災 旭市飯岡津波被災の碑」が建てられ、津波発生時の避難施設も建設されました。
 このように高低差がある「旧飯岡町」は、海の恩恵を受ける一方で災害の歴史も持った地域です。
飯岡灯台
台地の上には巨大の風車で風力発電が行われています
刑部岬に建てられた飯岡灯台

飯岡漁港
飯岡漁港
飯岡刑部岬展望館~光と風~

天保水滸伝と座頭市の町
 「旧飯岡町」を吸収した「旭市」の地域は、戦国時代の武将「木曽義昌」が晩年を過ごした地域で、江戸幕府開府前の1590年(天正18年)の徳川家康が関東移封になった事で、木曽義昌には下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に1万石が与えられ、着任した義昌はこの地域の街づくりに尽力しました。
 また、「旧飯岡町」では江戸時代後期の天保から嘉永にかけて下総地域で「飯岡助五郎」と「笹岡繁蔵」の二人の侠客の抗争があり、その顛末を講談として語られるようになったのが「天保水滸伝」です。
 現在の横須賀市に生まれた「飯岡助五郎」は、相撲部屋の「友綱部屋」に入門したものの、親方の急死で1年足らずで廃業し、当時地引網で大漁景気だった九十九里に渡って漁夫となりました。その後飯岡に移り、飯岡の玉崎神社の奉納相撲でその名を知られるようになり、当時銚子から飯岡まで縄張りを持っていた「銚子の五郎蔵」の代貸になりました。飯岡一帯の縄張りを譲り受け、かつ飯岡の網元の事業も成功させ、漁港整備をはじめ飯岡に大いに貢献しました。また十手も託されるようになった頃に、相撲部屋の「千賀ノ浦部屋」に入門した現在の東庄町の「笹川繁蔵」は1年で廃業し侠客となった人物で、次第に勢力を拡大するようになり、対立するようになりました。現在も玉崎神社には、飯岡助五郎の碑と助五郎が力比べや雇用の際に使用したと伝えられる「力石」があります。
 また、作家子母澤寛(しもざわかん)の小説が原作で、映画で有名になった「座頭市」の物語は子母澤が「飯岡助五郎」の取材で佐原市を訪れた際に、飯岡にまつわる話のひとつとして聞いた「盲目の侠客 座頭の市」の話を元にしたもので、実在した人物をモデルにしていた事から、九十九里ビーチラインの萩園海岸近くには「座頭市物語の碑」が建てられているなど、物語にまつわる地になっています。
玉崎神社
「座頭市」のモデルになった記念碑
玉崎神社境内にある飯岡助五郎の碑と力石

絶景観光スポット刑部岬
 飯岡町の台地部にあたるのは千葉県北部に広がる下総台地の東端にあたり、銚子市から旭市まで、海の浸食によって出来た崖「海食崖(かいしょくがい)」の南端、そして「九十九里浜」の最北端の境目にあたるのが飯岡町の「刑部岬(ぎょうぶみさき)」です。刑部岬がある「屛風ヶ浦」は高さ40~50mにもおよび、東は太平洋、南は九十九里浜、西は条件が揃えば「富士山」を望む事ができる絶景ポイントとして「関東の富士見百景」の他に「日本夜景遺産」「日本の朝日百選」「日本の夜景百選」「日本の夕日・朝日百選」にも選定され「上永井公園」という公園になっています。
 また、「あしたのジョー」の作者「ちばてつや」氏の父親は飯岡の出身で、戦後に一時「ちば氏」も飯岡に住んでいた事から、「刑部岬展望燗~光と影」のある「上永井公園」内には「あしたのジョー」で登場するキャラクターの石像が置かれています。
 旭市に合併する前の1989年(平成元年)から絶景ポイントを生かした「いいおかYOU・遊フェスティバルが開催」がされるようになり、10000発もの花火を打ち上げるなど「花火の絶景」も売りにして毎年10万人もの観光客を集めるイベントにまで成長しました。コロナ禍で中止が続いたものの2023年(令和5年)には4年ぶりに開催され多くの観光客を集め、「絶景の飯岡」が復活しました。
 このイベントが開かれていた事で、かつて「天保水滸伝」や「座頭市」の物語の舞台となった「旧飯岡町」は現代になっても物語の舞台になりました。それはドラマやアニメにもなった「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」で、この物語の舞台になった事で若者たちがロケ地を巡る「聖地巡礼」をする観光客や絶景を楽しむ観光客で賑わっています。
 更に刑部岬に建設された飯岡灯台は1956年(昭和31年)に初点灯し、海の安全に役立っている他、2018年(平成30年)には一般社団法人日本ロマンチスト協会が行っている「恋する灯台プロジェクト」で、飯岡灯台も「恋する灯台」に認定され若い観光客を集めています。建設が進んでいる銚子連絡道路の横芝光町芝崎から匝瑳市横須賀の約5kmが2024年(令和6年)3月31日に開通し、既に計画されている旭市までの区間が開通すれば、銚子市内と都心の所要時間が更に短縮され更にアクセスが向上する事が期待されています。旭市に組み込まれ市の一部になっても、かつて物語になり飯岡は旭市の魅力的な観光スポットとして、これからも観光客を集め続けるでしょう。
打ち上げ花火上から
「打ち上げ花火上から・・・」の記念碑
「打ち上げ花火・・・」の撮影場所モニュメント

あしたのジョー
「あしたのジョー」のライバル力石徹の石像 
「あしたのジョー」矢吹丈の石像

(2024/4/10)
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