一宮町_玉前神社(たまさきじんじゃ)
「パワースポット」といわれている「玉前神社」
701年(大宝元年)に制定された大宝律令によって、全国各地にいた豪族中心の政治から天皇中心の政治に移り変わると共に、飛鳥時代から明治時代初期まで地理的区分の基本単位になっていたのが令制国(りょうせいこく)です。私達の千葉県は、北部が「下総国」中部が「上総国」南部が「安房国」でした。
この令制国にはいくつもの神社が置かれていますが、その中で最も「社格」が高いとされる神社が「一宮(いちのみや)」と呼ばれていました。現在の一宮町にある「玉前神社」は上総国の一宮であったことから、その一帯が「一宮庄(いちのみやしょう)」と呼ばれるようになり、そのまま町の名前が一宮町へと引き継がれたとされています。
また、「玉前神社」は律令の補完のために決められた「格式(きゃくしき)」のひとつ「延喜式」に書かれた神社の一覧表「神名帳」に記載され、当時朝廷から最も重要視された神社のひとつでした。
昨今「玉前神社」は古代の遺跡が出来る直線的に並ぶよう建造されているという「レイライン」説にあてはまると話題になっています。春分と秋分の日に九十九里の海から登った太陽の位置と「玉前神社」の鳥居、「寒川神社(神奈川)」「富士山」「七面山(山梨県)」「竹生島(滋賀県)」「元伊勢(京都府)」「大山(鳥取県)」「出雲大社(島根県)」の7つの神社が「一直線に並ぶご来光の光(=レイライン)」並ぶことから「パワースポット」のひとつとしても知られています。
神武天皇の母を祀った玉前神社
「玉前神社」という名前は祭神の「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」に由来するという説、他に九十九里浜はかつて「玉の浦」と呼ばれ、太東崎が南端にあたる所から玉崎(=前)となったという説などいくつかの説があります。
現在の「玉前神社」の社殿は、江戸時代の1687年(貞享4年)に造営されたもので、1558年~1570年(永禄元年~13年)の間に発生した戦火によって社殿が消失し、過去の記録が残っていないため、残念ながら正確な創建は分かっていません。
祭神の「玉依姫命」は「古事記」や「日本書紀」に登場する女神のひとりで、初代天皇「神武天皇」の母とされています。縁結び、子授け、安産、子育てにご利益があるとされており、「源頼朝」の妻「北条政子」が懐妊に際して、安産を祈願されたともいわれています。
神社の社伝では「玉依姫命」が海からこの地に上がり、竜宮に住むとされる海神(わたつみ)の娘「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」から託された神武天皇の父「鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」を養育し、その後結婚して神武天皇を生んだとされています。
また、無形民俗文化財になっている「上総神楽(かずさかぐら)」は、「春祭り」や秋の「十二社祭り」の時などに境内の神楽殿で演じられています。演者はかつて神社の祭りなどを世襲していた「社家(しゃけ)」の5軒だけに伝承されていましたが、現在は保存会が発足して引き継がれ、16の演目が演じられています。
観光客を呼ぶ「上総十二社まつり」
玉前神社の大祭「上総十二社まつり」は、毎年9月8日~14日にかけて行われ、13日が例大祭になっています。睦沢町にある「鵜羽神社(うばじんじゃ)」が祀っている「鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)」が神輿に乗って「玉前神社」の「玉依姫命」を訪れ「年に一度の逢瀬の契りを結ぶ」という神事で、「玉依姫命」が上陸したとされる太東崎に一族の神々が集まります。この神事は807年(大同2年)頃から始まったとされ、神輿を担ぐ人々が裸に近い姿で波打ち際を走る事から別名「裸祭り」と呼ばれています。
10日には睦沢町の「鵜羽神社」、13日の例大祭には睦沢町の「三之宮神社」から2基の神輿、睦沢町の「玉垣神社」と茂原市の「二宮神社」から2基の神輿が「玉前神社」に向かいます。更に一宮町の「玉前神社」をはじめ、同町の「南宮神社」、いすみ市岬町中原の「玉崎神社」と椎木の「玉前神社」から「大宮」「若宮」のそれぞれ2基の神輿が、他にいすみ市岬町の八上の「谷上神社」から1基と併せて5社9基の神輿が東京オリンピックのサーフィン競技会場にもなった「釣ヶ崎海岸」に集まり「御霊合わせ」の儀式を行った後、各神社に戻っていきます。
この「例祭」が1,200年は続いていることから、はっきりとした創建は分からないものの「玉前神社」はそれ以上の歴史があることは分かっています。「上総の裸祭り」や「上総十二社まつり」と呼ばれているこの祭りは、海浜や河辺で禊(みそぎ)をする「浜降り神事」の代表として広く知られており、この壮大な儀礼をひと目見ようと、関東一円から大勢の観光客が集まって来る一宮町にとって一大イベントとして現在も続いています。
2023年(令和5年)に開催された十二社祭のポスター
(2024/9/10)