Chibabiz.com
千葉県企業の情報サイト
〈チバビズドットコム〉

HOME ぴかいちば チバビズ探訪 ちばのたね ホームページ道場 バックナンバー チバビズ・マルシェ
ちばのたね
ちばのたね
千葉の人でも意外と知らなかった特徴と魅力。
チバビズの視点を通して、
街の新しいビジネスの種を見つけてください。

ちばのたね バックナンバー(49~60)
船橋市(ふなばしし)
地図
鉄道路線が充実している船橋市
 船橋市は千葉県北西部の位置し、市の中央部は下総台地、臨海部は沿岸流で形成された砂丘地帯、その間は平地が広がっています。県内では千葉市に次いで人口が多く、政令指定都市外の人口ランキングで642,907人(2023年7月)と全国一位になりました。
 農業は大都市の周辺で行われる農業で、都市に新鮮な農畜産物を周年的に供給することを目的とした近郊農業が中心です。人参の栽培は全国第二位、県内では第一位を占めています。また梨の栽培も盛んで、非公式キャラクターによって更に知られるようになりました。
 東京湾沿岸部の三番瀬は数多くの魚が生息する漁場で、特に「スズキ」の漁獲量は日本一で、水揚げ直後の鮮度をPRするためにプライドフィッシュ「船橋瞬〆すずき(ふなばししゅんじめすずき)」という商標で売り出しています。また、江戸時代より海苔の養殖が行われていますが、最近では外来種のホンビノス貝が繁殖するようになり、新たな名産品として知られるようになってきました。
 工業は沿岸部を京葉工業地帯の一部としており、主に食品コンビナートと重化学工業が中心になっています。
 商業は古代より食糧物資を主とする物資の集積地・流通地として重要な役割を果たしてきた地域でした。江戸時代以来、遊郭など花街も形成されてきた土地で、1955年(昭和30年)に開業した船橋ヘルスセンターや中山競馬場などの娯楽施設も整っていました。船橋駅に隣接して1967年(昭和42年)に「西武百貨店」、1977年(昭和52年)に「東武百貨店」が進出、1981年(昭和56年)には船橋ヘルスセンターの跡地に作られた「ららぽーとTOKYO-BAY」など、大型店が進出したことで、千葉県内でも有数の商業地帯になっています。
 船橋市への鉄道のアクセスはJR東日本の総武線、京葉線、武蔵野線の3線、地下鉄の東西線、第三セクターの東葉高速鉄道、私鉄では京成電鉄、東武鉄道の2線の合計7つの路線が通っており県内屈指の鉄道路線が充実した状況になっています。
 道路は市の南部を東関東自動車道が横断していますがインターチェンジはありません。東関東自動車道に並行して京葉道路も通っており、こちらは市内に船橋インターチェンジがあります。国道は14号線と357号線が並行し南部を通っていて、東部は297号線が縦断しています。
船橋漁港
船橋漁港
境ららぽーとTOKYO-BAY
ららぽーとTOKYO-BAY

どの時代でも栄えた船橋
 船橋市の下総台地エリアには多くの遺跡が残っており、3万年ほど前から人が住んでいたものと思われます。飛鳥時代には市の南部から中央部にかけて皇室や伊勢神宮、下賀茂神社の領地だった夏見御厨(なつみのみくりや)があったとされています。平安前期には当時の歴史書「日本三代実録」に「下総国意富比神社(船橋大神宮)」の名前があり、927年(延喜5年)に成立した「延喜式」には「意富比神社(おおひじんじゃ)」と「二宮神社」の名前があることから、両神社はこの頃には既に創建されていたことがわかります。
 室町時代になると船橋市のエリアは千葉氏の家臣の領地となっていましたが、のちに北条氏へと支配が移り、1590年(天正18年)に北条氏滅亡に伴い徳川氏が関東に入府し、徳川家康の五男の徳川信吉の領地となり、市の中部エリアには小金牧が設置されました。
 江戸時代になると徳川信吉は佐倉藩へと移り、主な街道筋は天領に、他は旗本の知行地として統治されていました。また、1614年(慶長19年)には将軍の東金での鷹狩を目的に御成街道が整備され、将軍が休憩や宿泊をする船橋御殿が造られました。
 幕末の戊辰戦争下では1868年(慶応4年)に船橋が戦地となり本陣があった意富比神社をはじめ、現在の船橋本町エリアの大半は焼失してしまいました。
 1894年(明治27年)には総武鉄道(現JR東日本総武線)の市川~佐倉間が開通し、船橋駅が開業し1897年(明治30年)には全線開通したことでアクセスが良い船橋は商業・レジャー都市としての性格が強くなっていきました。
 昭和に入って1937年(昭和12年)には船橋町、葛飾町、八栄村、法典村、塚田村が合併して、船橋市が誕生し、1941年(昭和16年)に太平洋戦争に突入すると市内には軍需工場が進出し、東京からの疎開者と併せて船橋市の人口は急激に増加しました。1944年(昭和19年)に受けた東京及び周辺都市へ空襲がありましたが、幸いなことに船橋市内の被害は軽微なもので済みました。
 太平洋戦争後には京葉工業地帯の計画が進み1956年(昭和31年)から埋め立てを開始し、1964年(昭和39年)には中小企業向けの工業団地が造成され、その後南習志野などでも造成が始まり軍都から新たな役割を持つようになりました。
二宮神社
二宮神社
下総国意富比神社
下総国意富比神社(船橋大神宮)

東照宮
船橋御殿跡にある東照宮
石碑
船橋御殿跡を示す石碑

ショッピングモールからイベント会場としても進化
 船橋は江戸時代には成田山参詣の宿場であり、江戸を支える重要な魚・農産物の集積・供給地として栄えていました。明治時代に入っても軍都を支える経済都市として発展し、更に太平洋戦争後の食糧不足の時代には闇市の一大拠点になるなど各時代において商業の街としての側面で栄えてきた土地です。
 高度成長期の時代には農地の多くに大規模な団地が作られ、首都圏のベッドタウンになりました。しかし、船橋ヘルスセンター跡地に「ららぽーと」がオープンしたことをきっかけに、再び商業の街として開花し、日本が広大な敷地を持つ大型ショッピングモールの時代へと進むきっかけを作りました。また、1981年(昭和56年)にはイケアの日本第一号店「IKEA Tokyo Bay」も進出し、南船橋駅周辺は「ららぽーとTOKYO BAY」と共に更に集客力を持った地域へと発展しました。
 スポーツでは、Bリーグの「千葉ジェッツふなばし」をはじめ、ラグビーの「クボタスピアーズ船橋・東京ベイ」、更に野球の独立リーグ「ベイサイドリーグ」に所属する「千葉スカイセラーズ」の球団事務所があるなど、スポーツチームが活躍することで船橋を発信できるようになりました。
 「千葉ジェッツふなばし」の本拠地「船橋アリーナ(船橋総合体育館)」は2024年(令和6年)からは、「Bリーグ」の入会審査で求められている「5,000人以上収容できるアリーナ」の条件を満たしていないことから、条件を満たす新アリーナが必要になり、JR南船橋駅付近に「(仮称)LaLa arena TOKYO-BAY」を建設し、2024年4月からはここを本拠地とすることになりました。またこの施設はコンサートやスポーツイベントなども開催できる多目的会場として活用できるようになっており、隣接して「三井ショッピングパーク ららテラス 東京ベイ」の建設が進んでいます。こちらも2024年4月からオープン予定になっています。この施設の周辺には冷凍倉庫を始め物流拠点として既に機能しており、隣接した場所まで新しい物流センターが作られています。
 江戸時代には宿場町として賑わい戦後は闇市として多くの人が訪れていた船橋は、「ららぽーとTOKYO BAY」「IKEA Tokyo Bay」にイベント会場としても機能する「(仮称)LaLa arena TOKYO-BAY」が加わり、これからも数多くの人が集まる市として進化していくでしょう。
船橋アリーナ
現在の千葉ジェッツ本拠地船橋アリーナ
LaLa arena TOKYO-BAY
現在建設中の仮称LaLa arena TOKYO-BAY

IKEA Tokyo Bay
IKEA Tokyo Bay
物流センター
物流センターも建築されている

(2023/10/10)
市川市(いちかわし)
地図
東京のベッドタウン
 市川市は千葉県の北西部に位置し江戸川を挟んで東京都江戸川区に接しています。市の南部は平野、北部は下総台地になっており、年間平均気温は15.8℃とおおむね温暖な気候です。人口は約50万人で千葉県内では千葉市、船橋市、松戸市に次いで第4位の人口規模の市で、西側は東京都と接しており、ベッドタウンとして発展しています。
 市川市における梨栽培の歴史は大変古く、江戸時代から行われており、現在「市川の梨」と「市川のなし」が地域ブランドとして商標登録されています。市川に初めて梨を伝えたのは、寺子屋の師匠をしていた川上善六という人で、市川の土地は梨の栽培が適していることがわかると、美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)から梨の枝を持ち帰り、葛飾八幡宮の境内で試験栽培をはじめました。当初は八幡、市川、中山地域で栽培されていましたが、この地域が都市化されていくにしたがって、次第に北部へと移り、現在は大町、大野町、柏井町を中心に栽培されています。他に「花き」生産も盛んです。
 工業は、内陸部に中小の事業所が立地している他、臨海部には金属、鉄鋼、石油、化学等の大型事業所が集約されおり、京葉工業地帯の一翼を担っています。
 商業は、JR総武線の市川駅、本八幡駅の他、地下鉄東西線の行徳駅、妙典駅周辺など東京湾沿岸部が中心になっており、他にもニッケの工場跡地には大型商業施設のコルトンプラザなどもあります。
 市川へのアクセスはJR東日本の総武線が横断しており、市内には市川駅と本八幡駅の2駅があります。また市の南端には京葉線が横断し、塩浜駅、二俣新町駅の2駅があります。更に二俣新町駅に接続した武蔵野線は市の東北部を縦断し、二俣新町駅の他に市川大野駅があります。一方、私鉄は京成本線も同様に市の中央を横断し、市内には国府台駅、市川真間駅、菅野駅、京成八幡駅、鬼越駅の5駅が、北総線は市の北端を横断し、北国分駅があるなど北から南まで鉄道路線が横断しています。また、他にも地下鉄の都営新宿線が市の中心部まで到達し、市内に終点の本八幡駅があります。
 高速道路は市の南端を東関東自動車道が横断し、千鳥町インターチェンジがあります。市の中央部には京葉道路が横断し、京葉市川インターチェンジ、原木中山インターチェンジの2つのインターチェンジがあります。東京外環自動車道が東関東自動車道と京葉道路に繋がり市を縦断し、市川北インターチェンジがあります。国道は14号線が市の中央を横断、357号が市の南端を横断しています。
梨園
内陸部には梨園が点在し、シーズンには梨を目的に賑わう
境界になっている江戸川
市川との境界になっている江戸川

古くから栄えた街
 市内北部の台地地区には旧石器時代の遺跡が数多く存在しています。縄文時代の遺跡には堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚など国の史跡になっている遺跡があり、貝塚を含めた遺跡数が60か所にのぼり、集中した地域としては国内最大級の規模で残っています。これにより市川が縄文時代に栄えた場所だということがわかります。
 奈良・平安時代の律令国家では、国庁と国府が置かれて下総国の中枢になっており、国分寺と国分尼寺が所在していました。国分寺は今も残っている国分寺と、100mほど先には国分尼寺跡が国分尼寺跡公園として残されています。
 平安時代には八幡地区は寛平年間に創建された「葛飾八幡宮」を中心に発展しました。平安時代末期になると「石橋山の戦い」に敗れ安房国に落ち延びた源頼朝が、上総広常と国府台で合流して軍勢を立て直したことはよく知られています。また、1260年(文応元年)には中山法華経寺が創建され、中山地区周辺は「門前町」として栄えました。
 室町時代後期になると関東で活躍していた「太田道灌」の弟「太田資忠」が国府台城を築城し、城跡は里見公園内に残されています。また、国府台は戦国時代に里見氏と北条氏をはじめとした房総半島の諸将の間で起こった「国府台合戦」の戦場にもなりました。
 江戸時代に市川市域は天領や旗本領になり、市川地区や八幡地区は「佐倉街道(成田街道)」の宿場町として栄えました。また、徳川家康の命により塩の供給を得るため「行徳塩田」が整備され、水路を使って江戸へと運ばれていました。
 明治時代になり、1885年(明治18年)には陸軍教導団が置かれ、1899年(明治32年)には廃止されたものの陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院なども置かれ、市川は軍都として栄えました。太平洋戦争終戦後、陸軍が使っていた広大な土地は病院や大学、高校などの施設になりました。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20年)日本画家の東山魁夷は、市川市に居住し、1999年(平成11年)に90歳で亡くなるまで市川市で創作活動をつづけたことから、自宅の隣に2005年(平成17年)に市川市東山魁夷記念館が造られました。
明戸古墳石棺
里見公園内にある明戸古墳石棺
葛飾八幡宮
葛飾八幡宮

中山法華経寺
中山法華経寺
東山魁夷記念館
東山魁夷記念館

産官学のチームワークで発展する
 市川市内は歴史がある分、狭い道や、入り組んでいる路地が多く存在します。また、幹線道路も狭く、特に市の南北の交通の便に問題を抱えていました。2018年(平成30年)に開通した国道298号および東京外環自動車道が開通したことにより、南北間の交通事情が激変し、それに合わせて市川市初の道の駅「道の駅 いちかわ」も誕生しました。市川産の農産物や千葉のみやげ品の販売のほか、有名イタリア料理店の姉妹店やカフェなどができたことで、地元はもちろん観光客の人気も集め、市川の発信拠点として機能しています。
 高度成長期で市川市は急激に人口増加し、市川駅周辺は急速に都市化が進んだものの、ライフラインなども不完全状態でした。公共施設が不足するなど多くの問題を解決するため市川市は「市川駅南口地区第一種市街地再開発事業」を実施し、建設されたのが「I-linkタウンいちかわ」です。先進的で住みやすい都市型住宅(超高層マンション)の供給を図ると同時に駅前広場および道路の整備を行い、暮らしやすい街を開発することを目的としてこの計画は始まりました。
 2005年(平成17年)に着工しましたが、2007年(平成19年)に書類審査で鉄筋不足が発覚し、強度不足を解消する補強工事を実施した後2009年(平成21年)に竣工しました。市川駅南口に直結し低階層には商業施設や公共施設が入り、A街区の高層階は分譲マンション、B街区の高階層は介護付き有料老人ホームのライフ&シニアハウス、更に都市再生機構の賃貸住宅になっています。また、A街区の45階には無料で一般開放されている展望施設もあり、観光名所にもなっています。
 千葉県市川市に所在する千葉商科大学、和洋女子大学、東京医科歯科大学教養部、昭和学院短期大学、東京経営短期大学の5つの高等教育機関があります。そしてそれらが教育資源や機能等の活用を図りながら幅広い分野で相互に連携協力し、教育研究の質的向上を図り、地域社会の発展に資することを目的として、2018年(平成30年)11月に「大学コンソーシアム」が設立されました。更に市川市の発展を目的とした地域課題の解決に取り組むため、市川市、市川商工会議所と産官学連携包括協定を締結し、「大学コンソーシアム市川産官学連携プラットフォーム」が形成され、併せて2021年(令和3年)には産業界の京成電鉄株式会社、東京ベイ信用金庫、千葉税理士会市川支部、株式会社市進ホールディングスの4つの機関とも協定を結びました。このプラットフォームを通じて、12の取り組み目標と取り組みを掲げ市川市の発展に取り組んでいます。
道の駅いちかわ
道の駅いちかわ
I-linkタウンA棟
I-linkタウンA棟

(2023/9/8)
松戸市(まつどし)
地図
東葛地区の商業拠点のひとつ
 松戸市は江戸川を挟んで東京に隣接している関東平野にあり、市の東部は下総台地の西端に位置し、西部は水路が縦横に広がり宅地化が進んでいるものの、川沿いなどには田畑を見ることができます。また、東京都への通勤率が高いことから「千葉都民」といわれる人が多く住んでいます。
 松戸市の特産の「矢切ねぎ」は、江戸川の氾濫でできた砂と粘土が適度に混ざった土壌がねぎに適していることから明治初期から本格的に作られるようになり、「地域団体商標を取得しています。他にも柏と同様に「かぶ」の生産も盛んです。また、梨の生産も盛んで、梨の品種「二十世紀」は明治時代に松戸市で発見されたもので、松戸市二十世紀が丘梨元町の「二十世紀公園」には記念碑があります。
 工業は市内に「北松戸工業団地」「稔台工業団地」「松飛台工業団地」の三つの工業団地があり、食料品製造業、金属製品製造業、各種機械器具製造業、電子部品等製造業、プラスチック製品製造業の割合が高くなっています。
 産業の中で最も多いのは商業などの第三次産業で、松戸駅西口の旧宿場町は、商業の拠点として機能しています。また、1960年代(昭和35年~)には大規模住宅地が造成され、常磐線や京成線の駅周辺、更に国道6号線(水戸街道)沿線などにも商業施設が進出するなど柏に次ぐ東葛地区の商業の拠点になっています。
 松戸へのアクセスは、JR東日本の常磐線が南西から北東に向かけて縦断し、松戸駅・馬橋駅・新松戸駅・北小金駅の4駅が、武蔵野線は南部から北部に縦断し、東松戸駅・新八柱駅・新松戸駅の3駅があります。私鉄は新京成線が市を横断し、松戸駅・上本郷駅・松戸新田駅・みのり台駅・八柱駅・常盤平駅・五香駅・元山駅の8駅が、更に北総線(京成成田空港線)は市の南を横断し、矢切駅・秋山駅・東松戸駅・松飛台駅の4駅があります。加えて市の中部の馬橋と流山を結ぶローカル線の流鉄が縦断し市内には馬橋駅・幸谷駅・小金城跡駅の2駅があるなど鉄道路線も充実しています。
 高速道路は南西を東京外環自動車道が通り松戸インターチェンジがあります。国道は南西から北東に向けて6号線(水戸街道)が縦断し、南を水戸街道から分岐した464号が横断しています。
二十世紀梨発祥の地碑
二十世紀梨発祥の地碑
矢切ねぎ
松戸市の特産の矢切ねぎ

常磐線の馬橋駅
流鉄線が乗り入れている常磐線の馬橋駅
北松戸工業団地
北松戸工業団地

徳川家とゆかりの地が軍都へと変わる
 松戸には縄文時代の遺跡が多数見つかっており、古くから人が居住していたことを示しています。また奈良・平安時代には下総国葛飾郡に属しており、「松戸」という地名の由来は「更級日記」に書かれた「まつさとのわたりのつ」が元になったといわれています。鎌倉時代から戦国時代にかけては幕府の御家人だった千葉氏の一族や家臣が統治していました。
 江戸時代になると松戸市の地域は天領や大名領、旗本領が入り組んだ状態で、江戸川沿いの低湿地を水田化し、更に台地には畑を開発した「新田」村が生まれるなど農業地域になり、市の東部の下総台地にかかる辺りは幕府の放牧地「小金牧」がありました。また、松戸地区や小金地区は水戸街道の宿場町で、小金地区には水戸藩の本陣が置かれるなど江戸の徳川将軍家と水戸徳川家との強いつながりがありました。現在JR東日本の松戸駅付近にある松戸神社には水戸藩の二代藩主徳川光圀(水戸黄門)ゆかりの銀杏の木があり、松戸には水戸藩最後の十一代藩主「徳川昭武」が建てた「戸定邸(旧水戸藩主別邸、後の松戸徳川家本邸)」が残されています。
 歌謡曲でも有名になった「矢切の渡し」は、江戸時代初期に徳川幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつで、松戸と葛飾区の柴又を結んだ渡し船です。現在でも運行が続いており、「房総の魅力500選」や環境省の「「日本の音風景100選」にも選定されており、かつては官営で運営が行われていましたが、現在は民間が運営しています。
 明治時代に入り1878年(明治11年)には東葛郡役所が置かれ、1896年(明治29年)には現在の常磐線が開通、1905年(明治38年)には松戸競馬場が誕生しました。この競馬場は陸軍から「工兵学校」の敷地にしたいと要望があり、競馬場は1919年(大正8年)に中山競馬場に移転しました。また現在の千葉大学園芸学部は、1909年(明治42年)に日本で唯一の園芸系専門学校の「県立園芸専門学校」として設立されたものです。
 1939年(昭和14年)には当時の「逓信省」の「中央航空機養成所」(のちの「松戸高騰航空機上院養成所」)が建設され、民間パイロットを養成するする施設として機能していましたが、太平洋戦争が始まると、事実上陸軍の施設として利用されるようになり軍都の色が濃くなっていました。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20年)に「陸軍工兵学校」跡に「東京工業専門学校」が移転し、1949年(昭和24年)に千葉大学の工学部になるなど千葉大学にも縁のある地という側面もあります。
 戦後の高度経済成長の波に乗り、松戸市は東京のベッドタウンとして毎年2万人のペースで人口が増加していました。市は道路・下水道・学校などのインフラ整備を急ピッチで進めたものの、市民の身近な問題についてすぐに対応できず、いわゆるお役所仕事というイメージが根付いてきました。そこで当時の市長でドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者松本清市長が1969年(昭和44年)に「すぐやる課」を誕生させたことで、全国でも知られるようになりました。
銀杏の樹
松戸神社の銀杏の樹
戸定邸
徳川昭武が建てた「戸定邸」

矢切の渡し
現在も運行されている矢切の渡し
松戸市役所
松戸市役所

アーティストと子育てで繁栄
 松戸市は2020年(令和2年)に「次期松戸市総合計画の策定」にあたり、「まつど未来シナリオ会議」を開催しました。会議では「2030年(令和12年)の日本における私たちの暮らし」をテーマに、職員と共に市民や事業者も交えてり、将来起こりうる複数のシナリオを作成し、松戸市がチャンスや課題に備えるための対応策などを検討するなど新しい街づくりに向けた様々な活動が行われているようです。
 「株式会社まちづくりクリエイティブ」は、現在JR松戸駅前を中心に半径500mを「コアエリア」にして街づくりプロジェクトの「MAD City」を展開しています。「MAD City」は松戸駅付近の古民家を借り受け、アーティストやクリエイターのスタジオなどで活用するスペースとしてレンタルしています。他にも同会社が運営する「いろどりマンション」は、1974年(昭和49年)に出来た中古の賃貸マンションですが、独自にリノベーションをすることが認められていて、アーティストなどこだわりの多い人たちに人気のマンションになっているようです。
 更に「株式会社まちづくりクリエイティブ」は松戸市と提携し、おしゃれな松戸の実現に向け何が必要かを調査・研究するラボ型プロジェクト「MAD STUDIES」を立ち上げました。このプロジェクトでは松戸駅周辺で店舗を持ちながら活動している事業者と市の職員が、様々なジャンルから視野を広げてくれるゲストを招き「公民連携」の取り組みを行う官民共同のプロジェクトを展開しています。
 他にも「一般社団法人PAIR」もアーティストの滞在・制作場所を一定期間提供し制作活動を支援する「PARADISE AIR」という名前の「アーティスト・レジデンス」を運営し、こちらも国内外のアーティストが行き交う文化・芸術のトランジットポイントを目指し街の反映に貢献するなどアートの街、アーティストが集まる街としての街おこしが進められています。
 このように街おこしが行われる一方、松戸市は子育てでも評価されています。日経新聞と日経XWOMAN(クロスウーマン)は43の評価項目で「自治体の子育て支援制度に関する調査」を実施し、全国160自治体から得た回答を基に、2021年(令和3年)版「共働き子育てしやすい街ランキング」をまとめました。その結果、松戸市は83点で1位、浦安市が78点で2位を獲得しました。2022年(令和4年)の調査では残念ながら松戸市は2位だったものの、1位の豊島区とその差は2点差で惜しい結果になりました。
 松戸市は市民と共に新たな街づくりを推進すると共に、子育て支援を充実させ更に良い街へと進化していくでしょう。
松戸駅(西口)
駅の改修が進む松戸駅(西口)
いろどりマンション
いろどりマンション

旧・原田米店
古民家スタジオ 旧・原田米店
PARADISE AIR
PARADISE AIR

(2023/8/10)
柏市(かしわし)
地図
東葛地域の商業拠点
 柏市は千葉県の北西部に位置し、市域の大半は下総台地と谷津田から構成されており、利根川沿いや手賀沼に近い地域は低地になっています。また柏市には飛地のようなエリアがあり、わずか100mに満たない巾で繋がり流山市江戸川台に食い込んでいる所が西原地区です。更に南端の藤ヶ谷地区には白井市と鎌ケ谷市の間にある場所で、東西の巾が100m、南北1200m位の細長いエリアと50m四方のエリア、更に東西巾100m南北20m程度の二つの小さな飛地になっています。
 柏市の人口は千葉県内で5位に位置しており、産業は卸売・小売業が約4割を占める東葛地域ではトップの商業地域で、製造業、建築業がそれに続いています。
 産業の上位に位置する商業は、1992年(平成4年)に柏駅東口に大手デパートが進出し、隣接した商業ビルが立ち並んだことで一大ショッピングエリアになっています。また、柏駅西口にも小規模店舗が並ぶ商店街が賑わいを見せています。更に2005年(平成17年)に開業した「つくばエクスプレス」の「柏の葉キャンパス駅」周辺には、「ららぽーと」が進出するなど大小様々な商業施設が形成され、こちらも新しいショッピングエリアになっています。
 一方工業は市内に複数の工業団地を抱え、「柏の葉」駅付近には東京大学柏の葉キャンパスや東葛テクノプラザなど先端技術の研究開発機関が集まる「柏サイエンスパーク」が作られています。
 農業は利根川沿いに大きな農地が広がり米の生産が行われていますが、全国有数の生産量を誇っているのはカブ、ネギ、ホウレンソウ等、野菜の栽培が盛んに行われています。また、1975年(昭和50年)頃に日本で初めてチンゲンサイやザーサイなどの中国野菜も柏で栽培されました。
 柏市へのアクセスは、市の中部に「JR東日本」の常磐線が横断し「南柏駅」「柏駅」「北柏駅」の3つの駅が、市の北部を横断する「つくばエクスプレス」には「柏の葉キャンパス駅」「柏たなか駅」の2駅があります。更に「東武アーバンライン」が市を縦断し、「高柳駅」「逆井駅」「増尾駅」「新柏駅」「柏駅」「豊四季駅」の6駅があります。
 一方道路は「常磐道」が市の北部を横断し、「柏インターチェンジ」があります。また国道は16号線が市を縦断し、中部を6号線が横断しています。
道の駅しょうなん
道の駅しょうなん
ららぽーと柏の葉
ららぽーと柏の葉

豊四季台団地
豊四季台団地
つくばエクスプレス
田園部風景の中を通るつくばエクスプレス

かつての宿場町が「最先端の街」に発展する
 市の北部、利根川近くにある東海寺は、平安時代の807年(大同2年)に空海が嵯峨天皇の勅願で創建されたといわれ、「布施弁天」の名で親しまれています。水運が発達した江戸時代には船で参詣する人が多く小林一茶も訪れたとされ、大いに栄えていました。
 1479年(文明11年)に起きた太田道灌と千葉氏の合戦跡は、酒井根地域に「合戦場跡」として多く残っていたようでしたが、光が丘地区の開発などでたくさんあった塚は埋め立てられてしまいました。現在は団地の隙間などに一部残っているようですが、目立った史跡は少ないようです。
 水運が盛んだった江戸時代には川沿いの集落が栄えており、布施地区は流山市にあった河岸と松戸市にあった河岸を結ぶ鮮魚の輸送ルート「鮮魚街道(なまかいどう)」として賑わっていました。一方現在の柏市の中部にあたる地域は、水戸街道の小金宿と我孫子宿の間にであったため特に栄えることはありませんでした。
 明治時代になり、1896年(明治29年)に常磐線が開通し、更に大正時代になって北総鉄道(現在の東武アーバンパークライン)が開通したことで柏駅は乗換駅になり、柏駅を中心に市街地が形成されました。
 太平洋戦争後の1960年代に入ると、東京のベッドタウンとして人口が急増するようになり、1969年(昭和44年)に施行された「都市開発法」の第一号として柏駅前が再開発され、それ以降大手デパートなどの進出で、「東京の衛星都市」のような商業地として栄え、東葛地域の商業拠点としての地位を得ることになりました。
 鉄道網が引かれたことで、賑わっていた布施弁天は次第に参拝客が減り、寺の改築費を捻出するため一部の土地を柏市に売却しました。売却された土地は「あけぼの農業公園」になり、桜の季節には多くの花見客で賑わいを生み、その影響もあってか布施弁天の参拝客も増え改善されたようです。
 更に2005年(平成17年)つくばエクスプレスの開通を機に「柏の葉キャンパス駅」付近には東京大学、千葉大学、産学連携施設を中心にした「新しい街」が誕生したことで、移住する人も増えるなど人気を博しています。
布東海寺 
布施弁天 東海寺
あけぼの山農業公園
あけぼの山農業公園

柏駅
JR東日本・東武鉄道が乗り入れする柏駅
気象大学校
気象大学校

「公・民・学」の力で街を発展させる
 1997年(平成9年)に柏市が策定した「柏市商業振興ビジョン」では、周辺の野田市・我孫子市などの「リーダー的都市」として発展していくために官民一体の振興策が必要とされました。そこで商店街関係者を中心に「柏駅周辺イメージアップ推進協議会」が組織され、更に柏商工会議所青年部の「ストリート・ブレイカーズ」は、柏駅周辺に集まる若者の力に着目し活性化を図りました。今では柏駅周辺に古着やセレクトショップ、雑貨店などが次第に集まるようになり、原宿の「裏原宿」にならって自然発生的に「裏カシ」と呼ばれるようになったエリアも生まれました。また「裏カシ」には「ウラカシ百年会」というグループも誕生し若者文化の発信源となる様相を呈しています。  更に柏市は2023年(令和5年)には「柏のために何かしたい」という35歳未満の柏の若者たちが集まって「柏の中に眠っている機会」を探し、そこから新たな価値を作り出す市民公益活動団「KIKAI~カシワワカモノプロジェクト~」を立ち上げ、情報発信も行われています。
 また、「公・民・学」の組織がそれぞれ資金や人、施設を出し合って共同で運営組織を行い、地域資源を生かしより魅力的なものにしていく「街づくりの活動」も行われています。街づくりを行う団体「アーバンデザインセンター(UDC)」は、現在全国に20か所以上に広がっていますが、2006年(平成18年)に出来た「柏の葉アーバンデザインセンター」が日本初で、今でも柏の葉の街づくりを担っています。更に元々の繁華街、柏駅周辺地区の新たな街づくりを行っていくため、2015年(平成27年)に「柏アーバンデザインセンター(UDC2)」が設立され、柏周辺の街づくりに取り組むなど、柏市には「公・民・学」で街づくりを行う二つのUDCが街の発展に大きく寄与しています。
 それに加え、柏市をホームタウンにしているプロ・実業団のスポーツチームがあることから、「スポーツタウン柏」を掲げてスポーツを通した地域おこしの活動も盛んに行われています。このように柏市は今まで市の中心を担ってきた「柏駅周辺」と新しい街「柏の葉」を中心に「公・民・学」の力で千葉県をリードするような街に発展していくことでしょう。
東大柏キャンパス
東大柏キャンパス
フクダ電子アリーナ
東大ベンチャープラザ

東葛テクノプラザ
東葛テクノプラザ
柏の葉キャンパス駅前サテライトUDCK
柏の葉キャンパス駅前サテライトUDCK

裏かしわ
街のあちこちで若者向けの店舗が目立つ裏かしわ
高層住宅
柏キャンパス駅周辺を中心に高層住宅が立ち並ぶ

(2023/7/10)
市原市(いちはらし)
地図
工業、住宅地、農業、そして地磁気逆転の痕跡がある街
 市原市の人口は千葉県内では柏市に次ぐ6位の規模で、その面積は368.2㎢と千葉県内ではトップ、関東で14位の広さです。市域は房総半島の中部まで南北方向に細長く延びて、養老川が市を縦断しています。南部は房総丘陵に位置しており、北部の沿岸部は温暖で南部の内陸部は寒冷な気候になっています。2004年(平成16年)7月には県内最高気温の40.2度を観測しましたが、高滝湖や養老渓谷付近は夏も涼しく、標高の割に冷涼な地域になっています。
 市の南部には「チバニアン」として話題になった約77万年前に地磁気逆転の痕跡を見ることができ、「養老川流域田淵の地磁気逆転地層」の名称で国の天然記念物にも指定されています。
 農業は就業人口全体の2%弱と少なく、加茂地区の伝統的な作物「加茂菜」や姉崎大根、皇室献上品になった「姉崎いちじく」、セリなどが特産物で、市内唯一の道の駅「あずの里いちはら」などでも販売されています。
 工業は就業人口の30%弱を占めるほどで、市の沿岸部には国内最大規模の石油コンビナートや県内で唯一造船所があり、工業地帯の製造品出荷額は全国で第2位、県内では第1位を占めています。
 市原市へのアクセスは、市の北部の海岸に沿ってJR東日本の内房線が横断しており、五井駅、姉崎駅の2駅があります。また、五井駅からは小湊鉄道が通っており、市内には五井駅、上総村上駅、海士有木駅、上総三又駅、上総山田駅、光風台駅、馬立駅、上総牛久駅、上総川間駅、上総舞鶴駅、上総久保駅、高滝駅、里見駅、飯給駅、月崎駅、上総大久保駅、養老渓谷駅の17駅があります。
 道路は東関東自動車道館山線と国道16号がが市の北部を横断しており、更に297号が縦断、409号が中央部を横断しています。
チバニアン
地磁気逆転の地層「チバニアン」
工業地帯
沿岸部に広がる市原市の工業地帯

あずの里いちはら
地元の農産物を販売する道の駅「あずの里いちはら」
小湊鉄道
市内を走る小湊鉄道

律令国家では上総の中心だった
 市原市を縦断する養老川流域には古墳が点在し、古くからヤマト王権とのつながりがあったことを示す出土品があります。飛鳥時代には当時13設けられた大国のひとつ「上総国」として正式に一国になり、行政機関である国府が置かれるようになりました。大国に位置していることから国を管理する国守は皇族から任命されますが実際には現地に赴任せず、上総介(かずさのすけ)という次官級の役人が現地に着任しました。
 有名な「更級日記」は当時の上総介だった菅原孝標(すがわらたかすえ)の次女が書いた回想録で父が上総国での任期を終え京の都へ帰るところから書かれた回想録であることから、JR内房線の五井駅前の更科通りにはこの菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の像が置かれています。
 741年(天平13年)には聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じ、上総国にも建立されました。市役所の西側にある国分寺跡は、上総国分寺として残っており、東側にあった国分尼寺跡は、「史跡上総国分尼寺跡」として展示館が作られ、復元された建物の一部を見学することができます。
 その後、戦国時代には千葉氏に続いて里見氏の勢力下に置かれ、江戸時代には五井藩、鶴巻藩の旗本領になっていました。
 931年(承平元年)当時の下総付近で反乱を起こした平将門が、奈良の大仏を模して現在の市の東部に建立させたのが「奈良の大仏」で、江戸時代の資料によると当初は銅製の「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」が建立されていたとされていました。その後何度か作り直しが行われたようで、現在この地に残っているのは江戸時代の1804年(文化元年)に建てられた高さ1.7mの釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)です。この像は東日本大震災で台座から落ちて破損してしまったそうですが、市と住民が費用を折半して修復をしたそうです。今は無くなってしまった大仏ですが、今でも「廬舎那仏」の名前と、この地域の「奈良」という名称だけが残っています。
 明治時代になり1871年(明治4年)の廃藩置県では、現在の市原市は菊間県、鶴牧県、鶴舞県となり、1873年(明治6年)に他の県と合併して千葉県が誕生しました。
 太平洋戦争後には東京湾の埋立てが進み、市原市の沿岸は千葉港の一角に組み込まれ、特に石油産業などの化学工業を主とする企業が進出しました。
姉崎二子塚古墳
住宅街の中にある姉崎二子塚古墳
菅原孝標女の像
五井駅前の更科通りに置かれた菅原孝標女の像

ジオラマ
ジオラマで再現された上総国分尼寺と一部再現された尼寺
釈迦如来像
市原市奈良にある奈良の大仏(釈迦如来像)

さまざまな面を通して
 千葉県内で最大の面積を持つ市原市は沿岸部に面しているエリアが狭く、内陸部に大きく食い込み、それぞれ工業地帯、住宅地、農地、山間部とさまざまな顔を持っています。沿岸部はほぼ工場で覆われているものの、唯一市民に開放されているのが市営の桟橋スタイルの釣場「オリジナルメーカー海釣り公園」で、釣り好きはもとより家族連れも楽しめる施設として多くの人を集めています。また、住宅地は海岸寄りのエリアに広がっていますが、内陸部の千葉市とエリアを共有する「ちはら台」は新しい住宅地として開発・整備され、新しい街並みが続々広がりつつあります。
 「ちはら台」のように新しい街並みができつつある一方で、人口減少、過疎化の悩みを抱えています。その対策として市原市は提案型スタイルで「地域おこし協力隊」を募集し、採用されたそれぞれのアイデアで活性化に貢献しています。いちはら湖畔美術館の広場では、毎月「湖畔のマルシェ」が開催され、地域で活動する店が出店し賑わいを見せています。また地域おこし協力隊」の任期3年を過ぎても、それまで培ったネットワークを活用して活動を続けていることで徐々にその輪が広がり、活性化の一助となっているようです。
 一方、企業活動でも市原市を盛り上げる活動が起きています。市内を走る小湊鉄道は市民の足として機能するだけでなく街おこしの活動の他、里山を走る路線を生かしてトロッコ列車を運行することで観光客誘致に貢献しています。また、1946年(昭和21年)に創部した古河電機工業サッカー部は、東日本旅客鉄道と共同出資でジェフユナイテッド株式会社を設立し、1993年(平成5年)に創設された日本サッカーリーグ(通称Jリーグ)に市原市をホームタウンとして「ジェフユナイテッド市原」とし参戦、その後2005年(平成17年)からは「ジェフユナイテッド市原・千葉」になったものの、サッカーを通して市原市に貢献しています。
 更に市原市は、まち・ひと・しごと創生総合戦略のリーディングプロジェクトとして2014 年(平成26年)から3年毎に「房総里山芸術祭いちはらアート×ミックス」を開催。地域の資源を現代アートと融合させるという取り組みをしている他、2021年(令和3年)には内閣府地方創生推進室のSDGsの達成に取り組んでいる都市を選定する「SDGs未来都市」に千葉県の自治体で初めて認定され、更に特に先導的な取組である「自治体SDGsモデル事業」にも選定されるなど先進的な取り組みを行い、住みたくなる街づくりを進めています。
海釣り公園
桟橋スタイルのオリジナルメーカー市原海釣り公園
フクダ電子アリーナ
ジェフユナイテッド市原・千葉のホーム
「フクダ電子アリーナ」

市原湖畔美術館
高滝湖の湖畔にある市原湖畔美術館
湖畔のマルシェ
月一度開催されている湖畔のマルシェ

(2023/6/9)
< 最新記事に戻る >
HOME ぴかいちば チバビズ探訪 ちばのたね ホームページ道場 バックナンバー チバビズ・マルシェ
お問い合わせはこちら

チバビズドットコム制作委員会
株式会社 翠松堂BTL
© 2017 chibabiz.com Production Committee
トップへ戻る