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ちばのたね
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千葉の人でも意外と知らなかった特徴と魅力。
チバビズの視点を通して、
街の新しいビジネスの種を見つけてください。

ちばのたね バックナンバー(37~48)
八千代市(やちよし)
地図
市内を東西に分ける川と南北で異なる表情を見せる街
 八千代市は千葉県内の内陸部の下総台地上に位置し、茨城県南部から千葉県北部にかけて冬季に吹く「筑波おろし」の影響で気温が非常に下がる地域で、県内では気温が低い街のひとつです。市の南北を貫いて流れる「新川」の正式名称は「印旛放水路」で、千葉市花見川区に入ると「花見川」と名前を変え東京湾へ流れていきます。この新川は、江戸時代に行われた「利根川東遷」で、利根川の流れが東京湾から太平洋に変わったことで、増水時には印旛沼に流れ込むようになりました。そのため周辺に水害が発生することになり、江戸中期から人工的に花見川へ繋いで東京湾に流す工事に着手したものの、度々中断しながら工事が行われ、全て完成したのは1966年(昭和41年)でした。また印旛沼から流れる市の北部には里山や田畑、南部には住宅・商業施設などが集中し、市内は南北で違う姿を見せています。
 農業は低地では稲作、台地では梨の栽培が盛んに行われ、出荷量はホウレンソウやニンジンなどの野菜が多く、次いで畜産、更に梨をはじめとした果実、それに次いで米が続きます。現在の東葉高速鉄道の八千代緑が丘駅付近には、かつていくつもの牧場があり、牛乳も盛んに生産されていました。
 市内には八千代工業団地、上高野工業団地、吉橋工業団地とさまざまな業種が入居する三つの工業団地があります。また商業は国道16号沿線、駅周辺に大型の商業施設がありますが、1996年(平成8年)に開業した東葉高速鉄道の八千代中央駅周辺には大型の商業施設を始め多くの店舗が集まっています。
 八千代市へのアクセスは、市の南端を京成電鉄本線が通っており、八千代台駅、京成大和田駅の2駅があります。東葉高速鉄道の東葉高速線が市の中心部を横断しており、八千代緑が丘駅、八千代中央駅、村上駅、東葉勝田台駅の3駅があります。高速道路は通っておらず、国道16号が市を縦断し、296号が市の南部を横断しています。
八千代の梨
八千代の梨
市の縦断する新川
市の縦断する新川

京成八千代台駅(西口)
京成八千代台駅(西口)
アマゾンの物流センター
上高野工業団地の中のアマゾンの物流センター

宿場町、軍都そして日本初の大規模住宅団地
 旧石器時代の村上遺跡、萱田遣跡などが残されており、約3万年前から人が住んでいたことがわかります。平安時代には伊勢神宮の神領(神社に付属する土地)の萱田神保御厨や藤原氏の荘園が置かれ、鎌倉時代に入ると千葉氏の勢力下にあったといわれています。その後戦国時代には千葉氏の家臣であった村上綱清が米本城を築城しましたが、城主の原因不明の自殺を理由に廃城になったとされています。
 江戸時代に入ると、市内は佐倉藩領と天領、旗本領に分かれ、佐倉藩主の土井勝利は江戸から佐倉に至る佐倉街道を開きましたが、この道は多くの成田山新勝寺の参拝客が通るようになったことから「成田街道」と呼ばれるようになりました。この街道のほぼ中間に位置する大和田宿は、江戸を発って最初に泊まる宿場として大いに賑わい、宿場を中心に農業従事者が住む街になりました。
 明治時代になり、廃藩置県で印旛県に編入され、1873年(明治6年)には千葉県が誕生し、現在の八千代市一帯は1889年(明治22年)には大和田村・睦村・阿蘇村の3つの村にまとまりました。1873年(明治6年)に大和田村の大和田原で演習が行われたことで、市の南西部が習志野市と共に太平洋戦争終結までは陸軍習志野演習所の一部として軍郷の一部になっていました。
 大正時代に入ると、1920年(大正9年)に阿蘇村で現在も盛んに栽培されている梨の栽培が始まり、1926年(大正15年)には京成電鉄が成田まで開通したことで、市内初の大和田駅ができ街の発展に繋がりました。
 太平洋戦争後の1955年(昭和30年)には日本住宅公団が日本初の大規模住宅団地となった「八千代台団地」が建設され、1956年(昭和31年)に京成電鉄成田線に新たな駅「八千代台駅」が開業、更に1968年(昭和43年)には勝田台駅が開業し、1967年(昭和42年)に市制施行したことで「八千代市」が誕生しました。
住宅団地発祥の地の記念碑
八千代台駅前(西口)にある住宅団地発祥の地の記念碑
日本初の団地
日本初の団地 八千代台団地は現在も住人がいる

かつて人工増加率一位を記録した街
 1997年(平成9年)には八千代市の北部で市を縦断する新川と国道16号が交差する場所に千葉県内で3番目の道の駅として「道の駅やちよ」が開館しました。「道の駅やちよ」は地元の朝どれ野菜や花卉をはじめ八千代市産農産物の販売の他、地元酪農家が運営するアイスクリーム工房やレストランなどがあり、川の対岸には「やちよ農業交流センター」が併設され、「農産物・加工品販売所」や農業体験や料理教室を通して地元農家と市民との交流の場になっています。
 企業誘致も盛んに行われ、昭和40年代には「八千代工業団地」などが開発される一方、住宅地としては東京へのアクセスが良い立地にあることから、昭和30年代から50年代にかけて勝田台団地、米本団地、高津団地、村上団地などの大規模な住宅団地が建設され、1975年(昭和50年)には全国の人口10万人以上の都市の中で一番の増加率を記録しました。更に1988年(昭和63年)には東葉高速鉄道が開業し1996年(平成8年)に東葉高速鉄道と東京メトロ東西線との直通運転が実現したことで、かつて農地だった地域が東葉高速鉄道沿線では住宅地の開発が急ピッチで進み、高層マンションやショッピング施設も続々とオープンしました。今では近隣からも買い物客が集まるショッピングタウンとしても発展し、2020年(令和2年)には人口が20万人にまで達しました。三菱UFJ不動産販売が2022年(令和4年)に調査・発表された「住みよさランキング」では、千葉県内で総合8位になるまでになっています。
 かつて「日本初の大規模住宅団地」が作られた八千代市は、京成電鉄、東葉高速鉄道と二つの鉄道を擁したことで、その発展は止まることなく続いていくでしょう。
道の駅やちよ
道の駅やちよ
八千代緑が丘駅周辺
開発が進む八千代緑が丘駅周辺

(2023/5/10)
流山市(ながれやまし)
地図
江戸の隣人口増加が著しい街
 流山市は千葉県北西部にあり、江戸川に隣接し北部と中部は下総台地の一部の高低差の少ない台地で、市のほぼ全域が住宅地や農地になっています。市の面積は千葉県内では5番目に面積が小さく、西部を流れる江戸川を挟んで東京都と埼玉県に隣接し、北部の野田市との境界には明治時代に作られた人工河川「利根運河」が流れています。
 市の西部の江戸川に沿っている本町地区はかつて栄えていた地区で、一方東部は現在住宅地化が進んでおり、新しい商業施設はこのエリアに増えています。また、北東部の駒木台地区は柏市の西原地区を取り込む変わった境界になっています。
 産業は第三次産業の比率が最も高く、次いで第二次産業、一次産業の順になっており、江戸時代から続くみりん製造が有名です。
 江戸川沿いには田園地帯が広がっており、常磐道流山インターチェンジを出ると巨大な物流センターが立ち並び、物流基地としての一面を見せています。
 流山市へのアクセスはJR東日本のつくばエクスプレスが市の南部を横断しており、南流山駅、流山セントラルパーク駅、流山おおたかの森駅の3駅があります。更に南流山駅があるJR東日本の武蔵野線が市の南端を縦断しています。私鉄は東武アーバンパークラインが市を縦断しており、流山おおたかの森駅、初石駅、江戸川台駅、運河駅の4駅が、武蔵野線に並行して縦断する流鉄線は、鰭ヶ崎駅、平和台駅、流山駅の3駅があります。
 高速道路は常磐自動車道が通っており、市内には流山インターチェンジがあります。国道は6号線が市の南端を横断しています。
江戸川土手
江戸川土手
広大に広がる田園
江戸川堤防に沿って広大に広がる田園

南流山駅
南流山駅
流山セントラルパーク駅
流山セントラルパーク駅

利根川水運とみりんで栄えた街
 流山は江戸時代には小金牧の一部で、現在の市内の大半は天領になっていました。利根川と江戸川を使って江戸に物資を運ぶ舟運が盛んだったため河岸(かし)ができ、街は反映していました。
 1782年(天明2年)に秋元三左衛門が酒とみりんの醸造を開始し「天晴みりん」を発売しました。更に1814年(文化11年)に酒造りをしていた相模屋の二代目の堀切紋次郎が、それまで関西方面で製造されていた赤みのある「みりん」とは違った白い「みりん」の製造に成功し「万丈みりん」として発売したところ人気を博し、流山はみりんの街として知られるようになりました。
 「天晴みりん」の五代目秋元三左衛門と交友のあった俳人の小林一茶は数十回にわたって流山を訪れるなど、流山は当時の文化人との関わり合いも多く、また幕末の混乱期には尊王攘夷派の志士達の弾圧をしていた「新選組」の本陣も置かれるなど、江戸と隣り合わせの流山は、文化・政治の面でも江戸と大きくかかわっていました。
 東北地方と江戸を結ぶ水運のルートとして、銚子から利根川に入り、関宿を経由して江戸川を下るルートが使われるようになりましたが、このルートには、一部に浅瀬があって大型船が通航できず積み替えが必要になってしまうことや、距離が長かったことなどの理由から、途中陸路を使ってショートカットすることがありました。
 明治時代に入り貨物の輸送量が更に増えたことで、陸路を使う代わりとして運河を作り船で運ぶ計画が浮上し、利根川運河株式会社が設立され1888年(明治21年)に起工し1890年(明治23年)に「利根運河」が開通しました。
 ところが1896年(明治29年)に日本鉄道土浦線(現常磐線)の開通を皮切りに、1897年(明治30年)の総武鉄道(現総武本線)の開通など鉄道による物流の時代になったことで、10年足らずで利根運河の役割は終わりました。その後1911年(明治44年)には流山軽便鉄道(現流鉄野田線)が運行を開始するなど、流山の鉄道が整備されていきました。現在利根運河跡は「運河水辺公園や利根運河交流館」として市民の憩いの場になっています。
天晴みりん
天晴みりん
万丈みりん
万丈みりん

白みりん発祥の地碑
流鉄流山駅前にある流山白みりん発祥の地碑
かごや商店
伝統の流山白みりんを販売している「かごや商店」

藤勇陣屋跡
近藤勇陣屋跡
利根運河
利根運河

流山は物流が発展の要
 江戸川の水運や白みりんでにぎわった「かつての流山」を思わせる歴史ある流山本町は、今では夜になると暗くさびしく感じることから、地元在住の切り絵作家とその友人の二人のボランティアが制作した「切り絵行灯」を作り街角に置かれるようになりました。今ではこの地域の歴史を感じさせる「切り絵行灯」は80基にものぼり、街の景観に一役買っています。また、流鉄流山駅周辺には古民家が多く、それを活用してカフェや交流スペース、宿泊施設への活用が取り組まれ、観光客の人気スポットとして発展しています。
 また、2005年(平成17年)に「つくばエクスプレス」が開業したことで、東京へのアクセスが格段に向上し沿線は急激に発展してきました。なかでも「流山おおたかの森駅」周辺は、「流山おおたかの森S・C」をはじめ商業施設が開業されたことで、駅を中心に宅地造成が盛んに行われ、マンションや住宅などが立ち並ぶ一大住宅街が出来上がりました。このことで流山市への転入者が増え、2013年(平成25年)から2019年(令和元年)までの間7年連続で「千葉県内の最も人口増加率が高い市」として発展しています。
 東京へのアクセスが売りで住宅地として人気が高く、みりんの街としても知られている流山ですが、物流の街としても発展してきました。
 かつて水運と河岸で栄えた本町にある「常磐道流山インターチェンジ」出口から続く巨大な物流基地は、今でも建築ラッシュが続いて拡大されています。運送の方法が水運から鉄道、自動車と変化を遂げても変わらず「物流の街」としての顔を残し、その勢いはまだまだ止まらないでしょう。
流山商工会議所
流山商工会議所
切り絵行灯
切り絵行灯

流山おおたかの森駅
流山おおたかの森駅
住宅地 おおたかの森
住宅地として発展している流山おおたかの森

流山インターチェンジ
常磐道流山インターチェンジ
物流基地
インターチェンジ付近に続々と建設される物流基地

(2023/4/10)
習志野市(ならしのし)
地図
ラムサール条約の登録地
 習志野市は千葉県北西部の位置下総台地の端に位置しています。東京湾沿いは遠浅の海岸を埋め立ててできた住宅地や商工業地帯が広がっています。
 かつて遠浅の海岸は潮干狩りと海苔の養殖で繁栄していましたが、1960年代に千葉県企業庁が埋め立てを実施し、袖ヶ浦団地ができました。更に1970年代にも埋立てが実施され、団地や住宅地、工業団地などが作られました。この埋め立て地の一部が旧大蔵省所有だったことから、埋め立てされずに高瀬川と谷津川で海と繋がる人口の干潟として残ったのが「谷津干潟」です。この「谷津干潟」は湿地に関する条約「ラムサール条約」の登録地になっていて、渡り鳥の重要な飛来地になっています。
 市内は住宅地化が進んで農地は減りつつありますが、ニンジンやネギなど近郊農業が行われています。
 工業は、東習志野の旧陸軍習志野演習場跡地に工業団地を造成して大工場を誘致し、埋め立て地の茜浜にも工業団地を造成して中小企業中心の工業団地が作られました。更に津田沼駅南口にも大型商業施設が集まっています。
 習志野市にはJR東日本の総武線津田沼駅、京葉線の新習志野駅が縦断しています。私鉄は京成本線が横断しており、谷津駅、京成津田沼駅、京成大久保駅、実籾駅の4駅が、また京成津田沼駅からは京成千葉線が分岐し、津田沼駅から新京成線が市を縦断し、市内には新津田沼駅があります。
 道路のアクセスでは、東関東自動車道が縦断し、谷津船橋インターチェンジと湾岸習志野インターチェンジが、そして京葉道路では花輪インターチェンジがあります。国道は14号線と357号線が縦断しています。
JR総武線津田沼駅
JR総武線津田沼駅
JR京葉線新習志野駅
JR京葉線新習志野駅

津田沼駅前
大型商業施設でにぎわう津田沼駅前
谷津干潟
ラムサール条約登録湿地「谷津干潟」

かつての軍郷習志野
 習志野市周辺にはかつて人が住んでいたことを示す縄文遺跡が見つかっています。また市内の鷺沼地区には古墳群が見つかっており、有力な豪族がいたことが想像されます。
 平安時代後期に鷺沼太郎源太光義が築城したと伝えられている「鷺沼城」があり、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、石橋山の戦いに敗れて房総半島に渡った源頼朝が再起して鎌倉に向かう際に陣を敷いた館の場所として「鷺沼御旅館」という記載があり、それが「鷺沼城」だと考えられています。
 江戸時代には市内のほとんどは幕府領や旗本領で、内陸の実籾村の北部は幕府によって作られた小金牧の一部になっていました。明治時代に入り1873年(明治6年)にはこの小金牧で陸軍の演習が行われ、後にその場所は習志野演習場となりました。
 日露戦争時には捕虜の収容施設が作られロシアの捕虜が収容され、第一次世界大戦ではドイツやオーストリア、ハンガリーの捕虜が収容されていました。更に大久保には騎兵連隊が置かれ、陸軍病院も作られるなど軍郷として栄えていました。
 1915年(大正4年)に東習志野に開設された習志野捕虜収容所において、当時ドイツ人捕虜がオーケストラ活動を行っており、跡地の東習志野四丁目児童公園には「ドイツ捕虜オーケストラの碑」が建てられています。
 昭和に入り陸軍習志野学校や戦車第二連隊が置かれるなど軍郷色が更に強くなり、また津田沼には鉄道第二連隊が置かれ、松戸から津田沼までに演習で路線が引かれました。現在その路線は新京成電鉄となり、鉄道第二連隊の跡地は現在の千葉工業大学の津田沼キャンパスに残っています。そして、当時の正門は大学の通用門として残され、国の登録有形文化財に指定されています。
 他にも太平洋戦争後、軍郷として多くの軍の施設があった場所は陸上自衛隊習志野演習場として残っているほか、大学などの施設になっています。
オーケストラメンバー
当時の捕虜収容所のオーケストラメンバーの記念写真
捕虜オーケストラの碑
公園内に建てられたドイツ人捕虜オーケストラの碑

千葉工業大学
鉄道連隊の跡地にできた千葉工業大学
千葉工業大学通用門
鉄道第二連隊の門だった千葉工業大学通用門

人気の住宅地習志野
 習志野市の面積は20.97k㎡で千葉県内54市町村の中で51番目という狭い面積ながら、2023年(令和5年)の1月の人口では9位と千葉県内でも人口密度が高く、三菱USJ不動産販売の調査では県内4位にランクさるなど都心へのアクセスが良い市として人気になっています。
 かつてJR東日本津田沼駅付近に長く広大な畑が広がっていましたが、2011年(平成23年)から宅地への転換がはじまり、今では戸建て住宅、高層マンションなどが建ち並び「奏の杜」と名付けられ、今でもマンション・住宅などの建設が進んでいます。市内には二つの大学を擁し、JR総武線津田沼駅周辺に進学塾が多数集まるなど、教育の街・文教都市としても知られています。また、スポーツでは大相撲の阿武松部屋、アメリカンフットボールのオービックシーガルズがあり、スポーツ・吹奏楽で有名な習志野市立習志野高校と併せてスポーツでも知られています。
 大正時代にあった習志野捕虜収容所に収容されていた捕虜たちが施設内でソーセージを製造していたことを知った当時の農商務省は、高栄養価食品としてソーセージに注目し、畜産試験場の飯田吉英(よしふさ)技師を派遣し、その技術を伝承させたことが「日本初のドイツ式ソーセージ」だったとされています。2013年(平成25年)に習志野青年会議所のメンバーを中心に当時のソーセージを復刻させようという声が高まり、出来上がったのが「習志野ソーセージ」で、習志野市民祭りで好評を得たことから習志野商工会議所がそれを引き継ぎ事業化されました。2017年(平成29年)には「習志野ソーセージ」として地域団体商標登録を取得し、ふるさと納税の返礼品としての取り扱いもされるなど、習志野市を知ってもらうための活動のひとつになっています。
 一方習志野市ではシティ―プロモーションWebサイト「Narashino Collection」を作成し、シティープロモーション活動を行っているほか、2008年(平成20年)からは地域の話題や催し物など、市の魅力を市内外に発信する「広報まちかど特派員」を毎年募集し、市民が取材した記事を市のホームページやインスタグラムで公開する取り組みも行っています。
 江戸時代には幕府、旗本領、そして軍郷として歩んできた習志野市は、市民の手に渡り「都心へのアクセスの良さ」という大きなメリットとともに更に発展していくでしょう。
習志野商工会議所
習志野商工会議所
習志野ソーセージ
かつてのソーセージを復活させた習志野ソーセージ

秋津団地
海岸地区に建設された秋津団地
奏の杜
JR津田沼付近で開発が進む「奏の杜」

(2023/3/10)
佐倉市(さくらし)
地図
4つのブロックで構成された市
 佐倉市は千葉県の北部下総台地の中央に位置し、年間を通して比較的温暖なものの千葉県内では最も寒さが厳しい地域にあります。6つの市町村の合併と一部区域の編入で誕生した市で、佐倉地区、根郷地区、臼井地区、千代田地区、志津地区、和田地区、弥富地区の7つの地域で成り立っています。
 市の中心に位置する佐倉地区と根郷地区は、歴史・文化・産業の核として佐倉市の玄関口という位置づけで、西端に位置するユーカリが丘を含む志津地区は市街化された地区、臼井地区と千代田地区は印旛沼に隣接している地区、和田地区と弥富地区は自然豊かな農業地区と4つのブロックに分かれます。
 農業は印旛沼や印旛沼へ流れ込む鹿島川・新川・手繰川・高崎川周辺を中心に稲作が盛んで、和田地区では大和芋(ヤマトイモ)の栽培も行われ名産品になっています。一方工業は根郷地区に第一~第三の熊野堂工業団地があり、弥富地区には研究開発地域「ちばリサーチパーク」があります。
 佐倉市の交通アクセスのうち鉄道はJR総武線本線が横断しており、佐倉駅があります。北部には京成本線が横断し、ユーカリが丘駅、京成臼井駅、京成佐倉駅、大佐倉駅の4駅があります。ユーカリが丘地区には、地域のアクセス向上のために造られた「山万ユーカリが丘線」があり、ユーカリが丘駅、地区センター駅、公園駅、女子大駅、中学校役、井野駅の6駅があります。
 高速道路は、市の中央を東関東自動車道が横断し佐倉インターチェンジがあり、国道は北部を296号が横断し、51号が縦断しています。
ユーカリが丘
ユーカリが丘
印旛沼
印旛沼

城下町の歴史と近代医療発信の街
 佐倉市の一帯には古代から人が住んでいた形跡があり、印旛沼を中心に多くの遺跡が残っています。また、戦国時代には千葉氏が本佐倉城を拠点としていましたが、小田原の北条氏に付いていた千葉氏は豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡してしまいました。
 江戸時代に置かれた佐倉藩は、武田(徳川)家、松平家等、老中や大老となる幕閣の中心人物が入封する重要な藩に位置づけられ、土井利勝が佐倉城を築き初代城主となり、後に老中首座の堀田正亮に代わり、以降幕末まで堀田氏が代々城主を務め、佐倉は城下町として繁栄しました。
 江戸から市川宿・船橋宿・大和田宿(八千代市)・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る佐倉街道が整備されました。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、佐倉街道は「成田街道」という愛称で呼ばれるようになりました。
 幕末には当時の城主堀田正睦が蘭学を奨励し、蘭方医の佐藤泰然に佐倉順天堂(現・千葉県指定史跡佐倉順天堂)を開かせ「西の長崎、東の佐倉」として西洋医学の街としても栄えました。
 明治時代に入ると1873年(明治6年)に佐倉城跡に歩兵連隊が置かれ、陸軍の軍都として栄えました。1871年(明治4年)7月15日に廃藩置県により佐倉県が置かれ、同年11月13日に佐倉県は印旛県と改められました。
 また、佐倉藩の藩校として設立された「佐倉藩学問所」は現在千葉県立佐倉高校になっており、洋風建築の旧本館が記念館として残され国の登録有形文化財に登録されているほか、校内の地域交流棟には藩校以来の和漢洋書約1万冊が所蔵されている「鹿山文庫」が展示され、解放されています。
佐倉藩主堀田正睦
佐倉藩主堀田正睦
佐倉城跡
国立歴史博物館の敷地内にある佐倉城跡

佐倉順天堂記念館
佐倉順天堂記念館
佐倉養生所跡の石碑
佐倉養生所跡の石碑

千葉県立佐倉高等学校記念館
千葉県立佐倉高等学校記念館
鹿山文庫
鹿山文庫

武家屋敷と新しい街が共存する街
 現在の「城下町佐倉」の街並みは「百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み群」として日本遺産に指定され、佐倉地区には10棟の江戸時代建築の武家屋敷が現存し、関東最多の「佐倉の武家屋敷群」があります。宮小路町の鏑木小路にある武家屋敷通り沿いには非公開の個人住宅を含め5棟の武家屋敷が連続して残っており、かつて武士が通った竹藪に囲まれた「ひよどり坂」と共に観光スポットになっています。付近には水堀、空堀、天守台跡などが残っている佐倉城跡があり、国立歴史博物館が隣接しているなど歴史ある街を象徴した地域になっています。
 佐倉市西端のユーカリが丘は山万株式会社が開発した街で、分譲戸数を制限して住民が一気に高齢化する事を防ぐ取り組みが行われ、中古住宅を買い取って移住希望者に販売する等画期的な取り組みで世代循環型の街になっています。更にユーカリが丘にはタイヤで軌道を走る鉄道「ユーカリが丘線」も整備され、地域の足として機能しています。この循環型の街ユーカリが丘は各方面からも注目され、数々の賞を受賞しています。
 他にもユーカリが丘は開発事業者が主体で街の運営を行っているのに対し、臼井地区にある「染井野」は住民たちが街の景観を守る活動を行う街として知られています。
 染井野はかつて農地と山林だった地域で、1990年(平成2年)から大規模開発団地や高級住宅地として開発が始められ、1992年(平成4年)に分譲が開始されました。京成臼井駅から染井野の入り口までは徒歩で10分程度とアクセスの良い地域で、緑豊かな美しい街並みを目指した「邸苑都市」がコンセプトのため分譲業者が佐倉市と「緑化協定」と「建築協定」を締結しました。1994年(平成6年)6月には「緑地協定運営委員会」が設置され、宅地内の道路沿いの植栽は共同管理されるようになり、2013年(平成25年)には「建築協定運営委員会」も設置され、緑地と建築の両輪の輪で、美しい景観・まち並みと良好な住環境の維持が行われています。
 また染井野出身者が「食」「暮」「働」をテーマに立ち上げた一般社団法人Someino Innovation Farmは、千葉県大豪雨・新型コロナウイルス感染症などをきっかけに、「食」のプロジェクトとして生産者による直接対面販売にこだわった「地域交流型ファーマーズマーケット」の「ソメイノファーマーズマーケット」を開催しています。毎週土日には染井野にある七井戸公園の沿道で開催されるなど市民が主体の活動が行われています。
 城下町、運営主体による循環型の街、そして市民主体で運営される街としてこれからも佐倉市は発展し続けるでしょう。
佐倉武家屋敷
佐倉武家屋敷
ひよどり坂
ひよどり坂

ユーカリが丘
ユーカリが丘
染井野地区の住宅街
染井野地区の住宅街

ソメイノファーマーズマーケット
ソメイノファーマーズマーケット
タウンネットワーク
ユーカリが丘タウンネットワーク

(2023/2/10)
浦安市(うらやすし)
地図
新旧とりまぜ3つのゾーンに分かれた街
 1981年(昭和56年)に市制を施行した浦安市は、千葉県北西部で最も東京寄りに位置し、旧江戸川をはさんで江戸川区に隣接しています。浦安沖はかつて遠浅の海が広がっていましたが、1960年代以降に埋め立てされ、その面積は現在の市の3/4を占めています。
 浦安市は、市制施行前の浦安町地域を「元町地区」、1962年(昭和37年)から1975年(昭和50年)に埋め立てられた地域を「中町地区」、1975年から1981年(昭和56年)に埋め立てられた地域を「新町地区」と区域が3つに分かれ、さらに東京ディズニーリゾートとホテル群がある「アーバンリゾートゾーン」と鉄鋼団地がある「工業ゾーン」の2区域の合計5区域に分かれています。
 「元町地域」は漁師町の名残の地域、「中町地域」は開発計画に基づいて作られた町で、戸建住宅や集合住宅が建設され近くには京葉線の新浦安駅がある地域です。「新町地域」は多様なライフステージに対応した都心近郊型住居地としての開発を中心に、文化、商業などの複合的な都市機能を持つまちづくりが進められ、高層、超高層住宅群が建つ地域になっています。
 市内には千葉県内では珍しく1979年(昭和54年)以降農地が存在していません。また、漁業は1958年(昭和33年)におきた江戸川漁業被害を契機に漁業権は放棄されたため、漁業も行われておらず、釣り船などが営業しているだけになっています。
 商業は元町地域には釣り宿、銭湯、海苔屋、寿司屋などが多く旧市街の街並みを残している他、舞浜地区にはイクスピアリなど新しい商業施設と市内には新旧が混在しています。
 浦安へのアクセスは、JR東日本の京葉線駅が新町地区新浦安駅、アーバンリゾート地区に舞浜駅、元町地区に営団地下鉄東西線の浦安駅があります。高速道路は首都高速湾岸線が市を横断しており、浦安インターチェンジがあります。国道は、湾岸線に沿って357号が通っています。
住宅街
住宅街
鉄鋼団地
鉄鋼団地

浦安市運動公園
フットサルチームのホームになっている浦安市運動公園
浦安D’Docs
浦安がホストエリアのラグビーチーム浦安D’Docs

埋め立てで人気の街に変身
 浦安は太古から水害に悩まされていた場所で、残念ながら歴史を語れる資料は残されていません。市内の猫実(ネコザネ)にある豊受神社は浦安最古の神社で、1157年(保元2年)の創建といわれています。猫実という変わった地名の由来は、鎌倉時代の1293年(永仁元年)に起きた大津波で大規模な高潮が浦安全土を襲い、大きな被害を受けました。住人達は「この災害に負けてはならない」と豊受神社付近に堤防を築いてそこに松を植え、「この地を水害の根を再び越させない」と「根越さね」と呼び、後に「猫実」と呼ばれるようになりました。江戸時代に入った1603年(慶長8年)には堀江、猫実、当代島の地区は徳川氏の直轄地(天領)になっています。
 明治時代になり1889年(明治22年)に堀江、猫実、当代島の3つの村が合併して出来たのが浦安村で、昭和の中頃までは現在市川市の一部の旧南行徳町・旧行徳町と併せて「行徳」と呼ばれていました。浦安市郷土博物館にはかつて浦安で行われていた漁業で実際に使われていた漁具が展示されている他、屋外展示場には境川を模した川を中心にした猫実地区の街が再現され、かつての浦安の街の風景を見ることができます。
 浦安市の元となる浦安町は1909年(明治42年)に誕生し、当時の面積は4.43㎢でした。第二次世界大戦後の昭和30年代までは、浦安の境川などの川岸には千数百隻の漁船が停泊している漁師町でした。1958年(昭和33年)に起きた製紙工場から誤って排出された有害排水が原因で発生した公害騒ぎで、漁業権の一部を放棄したことがきっかけとなり、埋め立てによる地域再生が本格化しました。
 1965年(昭和40年)に着工、1981年(昭和56年)に完成し、面積は16.98㎢とおよそ4倍に拡大しました。
 市は埋め立て事業の当初から「住宅地の造成」「大規模遊園地の誘致」「鉄鋼流通基地の形成」を三本柱に事業を進め、東京ディズニーリゾートの誘致に成功したことで浦安市の財政面で大きな功績をあげ、市のイメージアップにも貢献しました。
押切稲荷神社
猫実地区にある押切稲荷神社
浦安市郷土博物館
かつての浦安を再現した浦安市郷土博物館

新・旧の街がひとつになる取り組み
 漁師町だった浦安には、1958年(昭和33年)に創業された浦安魚市場がありましたが、建物の老朽化や後継者不足などを理由に2019年(平成30年)に閉鎖してしまいました。その跡地には店舗付き共同住宅が建設され、テナントとしてスーパーマーケットが入り、かつての浦安の名残の施設がひとつ消えてしました。
 一方で鉄鋼団地と東京ディズニーリゾートを抱える市の財政を表す裕福度は千葉県1位にランクされ、東京へのアクセスが良いこと、整備された街並みと人気の東京ディズニーリゾートに近いことで、中町、新町地区は大人気のベッドタウンとして知られるようになりました。
 このように人気を博してきた浦安市ですが、2011年(平成23年)3月に発生した東日本大震災で市内86%の地域で液状化現象が発生し、インフラにもダメージがあり大混乱に陥りました。現在では液状化現象の被害から立ち直り、一度は混乱が起きたものの浦安市の人気は復活しています。
 元々浦安に住んでいた人たちが多く住む元町地区では、4年に一度「堀江の清瀧神社」「猫実の豊受神社」「当代島の稲荷神社」三社合同で行われる祭り「浦安三社例大祭」が開催されていますが、新しくできた中町や新町に住む人のほとんどは千葉県外から移住してきた人たちで、元町との交流する場が余りありませんでした。一方、2007年(平成19年)から「明海の丘公園」で「明海の丘夏まつり」が地域住民たちの交流の場として毎夏行われていました。そこで「明海の丘夏まつり」を統合して開催されるようになったのが2010年(平成22年)から中町・新町エリアで開催されている市民参加型のイベント「ウラヤスフェスティバル」です。イベントでは元町の老舗など市内の個店も出店することで、かつての良き浦安とも触れ合いが行われるようになり、中町や新町へ移住してきた人たちが、古くから浦安に住む元町と人たちとの交流の場としても機能しているようです。
当代島稲荷神社
当代島稲荷神社
舞浜駅
舞浜駅

ディズニーリゾートライン
ディズニーランドを周るディズニーリゾートライン
イクスピアリ
イクスピアリ

(2023/1/10)
野田市(のだし)
地図
千葉県の最北端の市
 野田市は千葉県の最北端で関東平野のほぼ中央に位置し、東側は利根川、西側は江戸川、南は利根運河に囲まれています。川を境に茨城県と埼玉県に隣接し、この水路を利用した江戸への水運で発展しました。醤油の街として知られ、業界再大手「キッコーマン株式会社」の本社と工場が、白醤油では業界最大手の「キノエネ醤油株式会社」があります。他に中小の醤油メーカーがあり、その生産量は国内生産量の1/3を占めるといわれ、醸造関連の遺産は近代化産業遺産に認定されています。
 市街地は国道16号線に沿って市の南部に集中しており駅を中心にベッドタウンとして住宅開発が進んでいます。
 市の北部および利根川、江戸川に沿って農地が広がり稲作も行われていますが、枝豆は全国有数の産地で、麦は千葉県最大の作付面積を誇っています。
 工業は市内に5か所の工業団地があり、化学工業の事業所数は千葉市、松戸市に続き3位で、泉地区には物流施設の立地も進んでいます。
 商業の中心はかつての市街から国道16号沿線へと移っています。
 野田市へのアクセスは、鉄道は市の中央を東武アーバンパークライン(東武野田線)が通っており、梅郷駅、野田市駅、清水公園駅、七光台駅、川間駅の5駅があります。高速道路は無く、最寄りのインターチェンジは常磐道の流山インターチェンジになります。国道は16号線が市の南部から中心部を通っています。
野田市駅
東武アーバンパークライン野田市駅
江戸川
野田市を囲んで流れる江戸川

キッコーマン株式会社本社
キッコーマン株式会社本社
キッコーマンの工場
ランドマークの様にそびえ建つキッコーマンの工場

街の発展を支えた醤油
 野田市には大きな遺跡はありませんが小さな遺跡が点在し、古くから人が住んでいたことがわかっています。また、平安時代に起きた「後三年の役」で活躍した鎌倉景正の居城などがあったとされていますが、野田市には歴史的な記録はあまり残っていないようです。
 江戸時代に入ると巨大都市となった江戸で消費されるさまざまな物資は、水運が大きな役割を果たすようになりました。東北地方から運ばれる物資や房総半島を回る太平洋の海路の船も、利根川を上り江戸川を通って江戸に運ばれていました。幕府は関宿に関所を設けると共に関宿城を江戸防衛の重要拠点として考えていました。
 江戸初期には醤油も関西方面から運ばれていましたが、水運の経由地となった銚子や野田で醤油づくりが盛んになりました。野田での醤油づくりは室町時代の永禄年間に、飯田市郎兵衛の先祖が甲斐武田氏に川中島御用溜醤油という名前で納めたことが始まりとされています。本格的な醤油の製造は江戸時代の1661年(寛文元年)に髙梨兵左衛門が始めました。それに続き1764年(明和元年)に茂木七左衛門が、1782年(天明2年)には茂木七左衛門の分家の茂木佐平治も醤油の醸造を始めました。その後茂木家の分家も続々醤油醸造を始めました。
 1917年(大正6年)に高梨家の当主髙梨兵左衛門が醤油醸造をしていた中野家と茂木家の分家六家を統合し、野田醤油株式会社(のちのキッコーマン)を設立しました。
 醤油と共に発展してきた野田に初の鉄道も醤油醸造によってもたらされました。1887年(明治20年)に設立された野田醤油醸造組合は、鉄道を使った醤油輸送を実現するため千葉県に路線建設を要請しました。それを受け千葉県は県営鉄道として国の免許を取得し、1911年(明治44年)に柏~野田町(現在の野田市)間に開業しました。それが東武野田線のルーツになりました。このように野田の街は醤油が大きな影響を与え、醤油と共に発展していきました。
千葉県立関宿城博物館
かつての関宿城を復元した千葉県立関宿城博物館
醤油発祥の地
徳壽稲荷神社の境内にある醤油発祥の地碑

茂木本家住宅
茂木本家住宅(茂木七左衞門家住宅)
茂木美術館
茂木七左衞門が収集してきた美術品を展示する茂木美術館

ベッドタウンと観光の街として
 醤油の街として栄えてきた野田市ですが、高齢化社会を迎え、更に東京への通勤・通学が不便なため若年層の人口は減少傾向にあります。また、東京から30km圏内の主な市の中で東京までの鉄道アクセスを比較して野田市は最も劣っていることから、野田市、関宿町の商工会議所・商工会等関係の21団体で「東京へ直結する鉄道を実現する会」を発足し、東京直結鉄道の誘致に関する署名運動を行いました。それによって高速鉄道東京8号線(有楽町線)の八潮-野田市間延伸計画が検討され、2030年代半ばの開業を目指しています。
 野田市は2018年(平成30年)より「野田市の魅力発信事業」として市民参加によるシティプロモーション事業を展開し、野田市の魅力の発信に取り組んでいます。また、野田商工会議所は2014年(平成26年)からはさまざまな業種の人々が講師を務め、プロの専門的な知識や情報、コツ、趣味としての楽しみ方などを無料で教える「まちゼミ」を積極的に開催し、街の活性化を図っています。
 観光の面では野田の史跡、施設や自然をガイドするボランティア団体「むらさきの里野田ガイド」が活動しています。他にも市内をほぼ一周できる60kmのサイクリング道路があり、野田を訪れるサイクリストへの情報発信と環境整備が行われています。その一つに立教大学観光学部の学生達が野田市の観光振興を目的に運営しているWebサイト「Michi na Noda」があります。
 このように野田市は醤油の街としてだけでなく、東京のベッドタウンとして、更に観光の街として発展を遂げつつあります。
旧野田商誘銀行
野田の醤油醸造業者たちで設立した旧野田商誘銀行
施設興風会館
茂木、高梨両家が設立した興風会の施設興風会館

野田みずきの街
開発された住宅街野田みずきの街
櫻木神社
桜の名所としても知られる櫻木神社

(2022/12/9)
木更津市(きさらづし)
地図
証城寺の狸林の郷
 木更津市は千葉県の中部の東京湾に面していて東西に長く、東側は台地や房総丘陵に、西側は平地になっています。県内では利根川に次いで長い小櫃川(おびつがわ)河口から東京湾に広がる干潟は盤洲干潟(ばんすひがた)と呼ばれ、日本の重要湿地500の指定地になっています。
 産業の中では第三次産業の就業者数が7割を占めており、農業は稲作が中心ですが減少傾向にあります。漁業は海苔養殖や貝類養殖は盛んで、潮干狩りの季節には多くの観光客を集めています。
 工業は、君津市の沿岸部にある京葉工業地帯に日本製鉄所関連の工場があり、内陸部の「かずさアカデミアパーク」は研究開発型企業を中心に誘致を進められています。
 木更津駅近くにある護念山証城寺には「深夜になるとどこからともなく、笛や太鼓などの囃子の音が聞こえてくる」という伝説があり、詩人で童謡作詞家の野口雨情が木更津を訪れた際にこの伝説を聞いて書かれたのが、有名な童謡の「証城寺の狸囃子」です。
 また、ドラマ「木更津キャッツアイ」の聖地として、更にロックバンド「気志團」結成の地としても知られています。潮干狩りが行われている江川海岸の海中電柱は、海に建つ不思議な電柱としてインスタスポットとしても有名になるなどの側面も持っています。
 木更津市への交通アクセスは、市内沿岸部にJR東日本の内房線が通っており、巌根駅(いわねえき)、木更津駅の2駅が、また木更津駅から君津市の内陸部の上総亀山駅までを走るJR東日本のローカル線の久留里線には、市内に木更津駅、祇園駅、上総清川、東清川、馬来田駅の5駅があります。
 道路は東関東自動車道館山線が市内を縦断し、木更津北インターチェンジと木更津南インターチェンジの2つがあります。この自動車道は、東京湾アクアラインに繋がる首都圏中央連絡自動車道(国道468号線)を横断し、東関東自動車道館山線とも連結しており、木更津東インターチェンジ、袖ヶ浦インターチェンジ、木更津金田インターチェンジの3つのインターチェンジがあり、道路事情に恵まれています。国道は沿岸部を16号線と127号線が、東部を410号線が縦断しています。
盤洲干潟
盤洲干潟
工業地帯
沿岸部に広がる工業地帯

海中電柱
海に電柱が建っている不思議な光景 江川海岸海中電柱
歌碑
証城寺にある「証城寺の狸囃子」の歌碑

海運の要衝からアクアラインで交通の要衝へ
 古くから栄えていた木更津市には様々な伝説が残っています。神話では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に向かう途中、東京湾の入り口付近までたどり着いたものの、海神の怒りで海が荒れ狂い先に進むことができなくなり、海神の怒りを解くため、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が入水して荒れた海を鎮め、無事に東京湾を渡り切ることができました。木更津に上陸した日本武尊は、太田山から東京湾を眺めて妃の死を悼み、その場からいつまでも立ち去らなかったということです。この神話から「君(日本武尊)が立ち去らず→きみ、さらず→きさらづ」と、木更津という地名の語源になったといわれています。
 また、鎌倉幕府を開府した源頼朝の伝説では、1180年(治承4年)に石橋山の戦いで平家に敗れ、房総半島に渡って再起をはかったことから、市内の八剱八幡神社に神領を寄進して社殿を造営したという伝えがあり、八剱八幡神社の境内には頼朝御手植えと伝わる蘇鉄があります。
 江戸時代になると幕府は主要河川に橋を架けることを禁止し、関所を設けるなどの政策を行ったため、物流は水運が中心になったことで木更津は上総や安房 と江戸を結ぶ海運の拠点として急激に発展しました。
 明治時代に入ると廃藩置県によって1871年(明治4年)に木更津県が設置されましたが、1873年(明治6年)には廃止となり千葉県が誕生しました。
 時代が大正、昭和へと日本が軍国主義へと進んでいく中で、木更津は次第に軍都として発展し、1935年(昭和10年)に大日本帝国海軍は木更津港北側を埋め立てて航空基地の造成を行いました。その跡地は現在の陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所になっています。
 戦後の1950年(昭和25年)には東京湾沿岸地域の工業地帯化が計画され、君津に君津製鉄所ができると、木更津市内に同社の系列・関連会社が進出し、社員の移住が顕著になりました。
 1983年(昭和58年)には千葉県三角構想が策定され、研究開発拠点の母都市になる「かずさアカデミアパーク」が整備され、1994年(平成6年)にはDNA専門の研究所としては世界初の「かずさDNA研究所」が開設されました。
きみさらずタワー
日本武尊と弟橘媛の像があるきみさらずタワー
木更津駐屯地
現在の陸上自衛隊 木更津駐屯地

八剱八幡神社
八剱八幡神社
蘇鉄
頼朝御手植えの蘇鉄

重要な役割を果たした金田地区の発展
 1997年(平成9年)に開通した東京湾アクアラインは、期待されていたかずさアカデミアパークや宅地造成地の計画、東京のベッドタウンとしての需要をほとんど発生させず、逆に流出してしまうというストロー効果を生じさせてしまいました。更に1991年(平成3年)にはじまったバブル崩壊で地価の下落と共に駅前の大型店舗の撤退が相次ぐなど、木更津駅前もかつての賑わいを無くしてしまう事態に陥ってしまいました。
 千葉県は対策としてアクアラインの通行料金の値下げにより改善を図ると共に、1998年(平成10年)には「金田地区土地区画整理事業」が認可され、UR都市機構と共に「かずさアクアシティ」として開発が始まりました。2012年(平成24年)には「三井アウトレットパーク木更津」がオープンし、同年「カインズモール木更津金田」もオープンするなど大型商業施設が続々とオープンしました。また、2016年(平成28年)には遊園地の「木更津かんらんしゃパーク キサラピアがオープン」、続いて高速バスターミナルがオープンするなど商業、業務、流通、文化、レジャー施設が住宅と共生する多機能複合型の都市開発が進められ、現在は木更津の人気が急上昇し、人口も増加傾向で休日には県外からも多くの買い物客が訪れ、大いに賑わっています。
 かつては上総・安房 ~江戸間の海上輸送を取り扱う流通拠点として栄えた木更津市は、アクアラインによって房総半島への新たな入り口を得たことで、これからも更に賑わっていくでしょう。
東京湾アクアライン
東京湾アクアライン
遊園地KISARAPIA
金田地区に出来た遊園地KISARAPIA

中の島大橋
中の島大橋
恋人の聖地
恋人の聖地

(2022/11/10)
成田市(なりたし)
地図
成田山新勝寺と空港の街
 成田市は千葉県北部の下総台地に位置し、年間を通して温暖な気候に恵まれており、「業務核都市」の「成田都市圏」の中心都市として「国家戦略特区」「構造改革特区」「拠点空港都市」「国際会議観光都市区」及び「国際観光モデル地」など、さまざまな役割を担っています。更に千葉県が策定した「千葉新産業三角構想」では「幕張新都心構想」「かずさアカデミアパーク構想」に並び「成田国際空港都市構想」に位置づけられるなど千葉県下でも重要な役割を担っています。
 成田市の市街は江戸時代に成田山新勝寺の門前町として栄え、その歴史的な町並みは日本遺産にも認定され、初詣参拝者は明治神宮に次いで全国2位を誇っています。
 市内の農業は台地部の山林と畑が混在している土地では野菜や落花生などが栽培され、低地部は稲作が行われているものの、全般的に減少傾向にあります。また、第二次産業は3つの工業団地とひとつの物流団地があり、その多くは空港に関連した企業です。第三次産業は、成田空港に関連する事業の大半が第三次産業に該当するため、第三次産業従事者が最も多くなっています。
 成田市へのアクセス環境は充実しており、JR東日本の成田線が市の南部から北部へ縦断している他、成田空港に向かう支線が市を横断しています。京成線も市を横断し成田空港まで通っています。一方道路は東関東自動車道が市の南から東方向に縦断し成田インターチェンジがあり、そこから成田国際空港線が分岐し成田空港まで通っています。東関東自動車道の大栄インターチェンジからは自動車専用道路の国道468号(圏央道)も通っており、都内を通ることなく常磐自動車道へのアクセスができるようになりました。一般国道は51号線(成田街道)が西側を縦断しており、西側には国道408号が縦断しています。
落花生畑
落花生畑
成田空港
成田空港

成田山新勝寺
成田山新勝寺
JR成田駅
JR成田駅

新勝寺の門前町成田が世界の玄関口に
 成田市周辺には旧石器時代の遺跡が多数発見され、古くから人が居住していたことがわかります。水運に恵まれ、大和政権にとって重要なルート上に位置し、政治・軍事・経済上重要な地域とされていたようです。
 平安時代に起こった「平将門の乱」で朝廷は将門の悪行を制するため、京都の神護寺に安置されていた空海作の不動明王像を下総国に送り祈願し、無事勝利を得ました。それを機に東国鎮護の霊場を作ることになったのが、成田山新勝寺の始まりです。 その後戦国時代には、社会の混乱で新勝寺は荒廃していましたが、江戸時代になり世情が落ち着くと再建・整備されました。庶民も利根川水運を利用し江戸から気軽に観光できるようになり、香取神宮、鹿島神宮、息栖(いきす)神社の東国三社詣など千葉を訪れる観光客が増えていきました。新勝寺自体も江戸に出向いて不動尊を開帳するなど普及活動を行ったことで、庶民の旅行先としても人気の場所になっていきました。
 更に、歌舞伎役者の初代市川團十郎が子授けを祈願したところ、無事待望の長男が誕生し、市川家との結び付きが強くなり「成田屋」の屋号を名乗るようになったのも成田山新勝寺の知名度を上げたひとつになるでしょう。
 明治時代に入ると1901年(明治34年)に成田―我孫子間を走る「成田鉄道」が開通し、現在の常磐線と連結しアクセスが向上しました。1910年(明治43年)には、成田門前―成田駅間を成宗電気軌道が運行を開始し、成田山詣でなどの観光客の足となり、益々賑わいを見せるようになり、門前町としての反映も続きました。
 農業と観光客で繁栄してきた成田ですが、1966年(昭和41年)「新東京国際空港建設計画」が発表され更に新しい局面が展開することになりました。しかし、空港建設計画は簡単にはいきませんでした。地元住人達の反対同盟が結成され、三里塚闘争が起こり、この混乱が収まらないまま1978年(昭和53年)に成田国際空港が開港しました。
不動明王が上陸した地
横芝光町にある成田山の不動明王が上陸した地
といわれている
成田山新勝寺本堂
成田山新勝寺本堂

市川團十郎の石像
額堂にある七代目市川團十郎の石像
成田山参道
参拝客でにぎわう成田山参道

観光、航空貨物更にベッドタウンとして発展する成田
 成田国際空港ができたことで、成田市は東京一極集中回避を目的にした「業務核都市」に指定され、地域の特性に応じて「規制の特例」を導入する構造改革特区のうち「国際空港特区」と「国際教育推進特区」「国家戦略特区」に認定され、国の重要な拠点として位置づけられました。また、成田国際空港が日本への玄関口で、成田山新勝寺を始め外国人の観光客が多く訪れることから、「拠点空港都市」更に「国際観光都市」「国際観光モデル地区」にもなるという全国でも特別な都市になっています。2020年度(令和2年度)のデータでも国際線は成田が全国1位になっています。
 また、国際航空貨物の拠点としても成田空港は重要な役割を果たしています。千葉県は成田周辺地区を空港関連産業・国際物流の集積や食料供給基地としての役割を推進しており、物流施設立地促進のためのインフラ整備・規制緩和、効率的な物流システムの構築も進めています。その政策の結果、2021年度(令和3年度)の成田空港の国際貨物取扱高は、世界5位になっています。
 一方、成田市はアクセスの良さからベッドタウンとしての成田も発展を続けています。1968年(昭和43年)に着手された成田ニュータウンはその後拡大を続け、2009年(平成21年)の東洋経済新報社が調査した「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」の4つの観点から住みやすい都市を評価する「住みよさランキング」では、成田市は全国総合1位を獲得するなどベッドタウンとしても高く評価されています。
 このように成田市は日本の玄関口として、物流の一大拠点として、更に観光、ベッドタウンとして発展し続けるでしょう。
地方卸売市場
新しくなった成田市公設地方卸売市場
物流拠点
物流拠点

成田ニュータウン
成田ニュータウン
ショッピングモール
ショッピングモール

(2022/10/11)
我孫子市(あびこし)
地図
手賀沼湖畔のベッドタウン
 我孫子市は千葉県の北西部で南北に長い市で、利根川と手賀沼に挟まれた下総台地にあります。千葉県内の中では最も寒冷な気候のため、熱帯夜になる日は少ない地域です。
 第一次産業は大都市周辺で行われる近郊農業が盛んで、利根川沿いと手賀沼沿いを中心に稲作が、下総台地上の地域には野菜が生産されており、手賀沼のフナや鯉、うなぎなどの漁業も行われています。第二次産業は全体の17%程度と低く、第二次産業よりは第三次産業の方が多いのが特徴で、ベッドタウンとして成長してきたことによるものでしょう。
 古くから栄えてきた我孫子市には難読地名が多く、岡発戸(おおかほっと)、下ケ戸(さげと)、都部(いちぶ)、中峠(なかびょう)、日秀(ひびり)、江蔵地(えぞち)など市外の人たちでは読めないような地名があります。
 鉄道は市の西側をJR東日本の常磐線が通っており、市内には我孫子駅、天王台駅の2駅があります。また、我孫子駅からは成田駅まで延びる我孫子支線が分岐し市を横断しており、この支線には東我孫子駅、湖北駅、新木駅、布佐駅の4駅があります。 我孫子がベッドタウンとして人気が高いのは、常磐線に繋がるJR東日本の上野東京ラインを利用すれば我孫子―東京駅間が最速38分、また東京メトロ千代田線を利用すると我孫子―大手町駅間が最速50分と、電車を使った都心へのアクセスが良いことです。
 一方、市内に高速道路や自動車専用道路は通っておらず、市の北西部を国道6号線が、また6号線から分岐した国道356号線が市の東西を横断している程度と道路のアクセスは鉄道へのアクセスよりやや見劣り感があります。
手賀沼
手賀沼
生涯学習センター
手賀沼湖畔に建つ生涯学習センター

手賀沼公園
手賀沼公園
貸しボート
貸しボートが並ぶ手賀沼公園

白樺派の街
 我孫子市周辺は旧石器時代から人類が住んでいたと思われる痕跡が残っており、江戸時代に利根川水運が発達したことで、特に東端の布佐地区は利根川の主要な河岸として栄えました。また街道も水戸街道が通っており、我孫子宿ができたことで交通の要衝となっていました。
 1911年(明治44年)、教育者そして柔道の父として知られている嘉納治五郎が別荘と農園を作りました。その後、治五郎の甥で美術評論家、そして宗教哲学者でもあった柳宗悦(やなぎむねよし)が1914年(大正3年)移住するなど多くの文化人達が住むようになり、大正から昭和初期にかけて「北の鎌倉」といわれていました。
 柳の移住がきっかけで、志賀直哉や武者小路実篤も移住してくるなど、文学同人誌「白樺」を中心に理念や作風を共有していた「白樺派」の作家達や文化人が居住するようになりました。このように白樺派の文化人達のかかわりが多かったことから、我孫子の白樺派の歴史を後世に伝えるため「白樺文学館」が作られました。
 1934年(昭和9年)高知県室戸岬付近に上陸した「室戸台風」が京阪神地方を中心に甚大な被害をもたらしたことがきっかけで、気象学者の岡田武松が気象通信網の整備の必要性を唱え、1938年(昭和13年)に現在の我孫子市の布佐に高さ30メートルの大鉄塔と鉄筋コンクリート造りの送信所で構成された「中央気象台出張所」を設立しました。当時気象情報は軍事機密事項になっており、国防上にも重要な役割をしていました。
 1941年(昭和16年)には高層気象観測の業務は廃止となり、その後他の測候所との連絡用無線施設として機能していました。やがて1999年(平成11年)に衛星通信の実用化がはじまり、この施設は閉鎖され、跡地は現在「気象台記念公園」として活用されています。このような経緯があったためか、公園の一部には今も地域気象観測所(アメダス)の設備が置かれています。
嘉納治五郎邸跡
天神山緑地として残されている嘉納治五郎邸跡
嘉納治五郎像
天神山緑地にある嘉納治五郎像

志賀直哉邸跡
志賀直哉邸跡
白樺文学館
白樺文学館

気象台記念公園
気象台記念公園
アメダス
気象台記念公園に設置されたアメダス

日本一汚濁した湖沼からの脱出
 東西に細長い我孫子市の南側に面している手賀沼は、昭和20年代までは透き通った水で、夏は子供が泳ぐなど非常にきれいな状態でした。しかし、昭和30年代の高度経済成長期に入ると、生活排水が沼を汚し水質を悪化させ、それによって異常増殖した植物プランクトンによって水質汚濁が進みました。環境省が行った水質調査では1974年(昭和49年)から2000年(平成12年)までの27年間「日本一汚濁した湖沼」という不名誉な記録を続けていました。
 国は手賀沼から利根川への排水と、逆に利根川から取水した水を手賀沼に注水するなど、他の川との排・受水対策を行うと共に、県は堆積したヘドロの除去など改善を進めてきました。このような活動のおかげで2002年(平成14年)の水質調査の結果、ワースト1を返上しました。
 その後も我孫子市はかつての手賀沼を取り戻すため公共下水道の改善を行うと共に、市民には浄化啓発や生息している生き物を紹介するパンフレットを作成し配布しています。また2010年(平成22年)から毎年12月の第一日曜日は、市民参加型の手賀沼周辺の清掃などの取り組みを行っている他、地域団体やボランティアなど、市民自らが手を上げ、手賀沼浄化と生息する動植物の保護を目的にした活動も行われています。
 かつての透き通った手賀沼が戻ってくるまでにはまだ道半ばですが、市民が積極的に取り組んでいる姿がこれからの我孫子市の良さを示しているような気がします。白樺派文化人に愛され、手賀沼を中心に豊かな自然に囲まれた我孫子市は、東京駅から最短38分と都心へのアクセスに優れたベッドタウンとしてこれからも発展していくでしょう。
水の館
手賀沼親水広場に建てられた「水の館」
市民ボランティア
手賀沼周辺を清掃する市民ボランティア

(2022/9/9)
鎌ケ谷市(かまがやし)
地図
ゆれにくい街鎌ケ谷
 鎌ケ谷市は千葉県北西部に位置し、下総台地と谷津田で構成されている大地です。標高が約13m~28mと隣接する市に比べて比較的高いため水没しにくいといわれています。また、千葉県が作成した「同じ強さの地震の場合に相対的に揺れやすいか」を図化した「ゆれやすさマップ」によると、鎌ケ谷市の周辺にはマグニチュード7以上の地震が心配される活断層は無く、プレート境界型地震でも震度6以上の地震になる可能性が低いということから「都心に近い千葉県北西部」のなかでも「ゆれにくい」ことがわかりました。そのことから鎌ケ谷市は「ゆれにくい街鎌ケ谷」をアピールし、企業誘致や新鎌ケ谷地区の住宅開発を推進しています。
 産業は農業が盛んで、県内でも有数の梨の産地として知られていますが、他にもブドウやサツマイモなどの観光農園もあります。1983年(昭和58年)に鎌ケ谷市は特産の梨を生かして梨ワインと日本初の梨ブランデーを開発しました。その後、鎌ケ谷梨ワイン・ブランデー株式会社が設立され、市から事業を引き継いでいます。
 鎌ケ谷市への鉄道アクセスは、市の中心部に位置する新鎌ケ谷地域を中心に東西南北に放射状に鉄道路線が引かれています。京成成田空港線が市を横断し、北初富、新鎌ケ谷の2駅が、縦断する東武野田線(愛称:東武アンバーパークライン)には鎌ケ谷駅、新鎌ケ谷駅の2駅、市の南東部から北西部にかけて縦断している新京成線には、くぬぎ山、北初富、新鎌ケ谷、初富、鎌ケ谷大仏の5駅があります。高速道路は通っておらず、国道は464号線が縦断しています。
梨
特産の梨
梨ワイン
特産の梨ワイン

江戸の終焉と開墾が今の鎌ケ谷の礎を作った
 鎌ケ谷市には縄文時代の貝塚がいくつか発見されており、そのうち貝殻山公園の西側には県内でも規模・内容共に有数の中沢貝塚があり、この地域に古くから人が住んでいたことが伺えます。
 鎌倉時代、現在の茨城県から千葉県にまたがり鎌ケ谷市の一部も含んでいた相馬郡は、千葉常胤の次男の相馬師常(そうま もろつね)が父から相続したことがはじまりで相馬氏が所領としていました。
 江戸時代には本多氏が鎌ケ谷市の一部を所領としており、また幕府が作った「小金中野牧」があった場所で、野生馬の供給地になっていました。村人は牧で放し飼いされている野馬(馬)が畑の作物を食い荒らさないように村と牧の境に「野馬除け(のまよけ)」の土手を作って防いでいました。また、牧で飼われていた野馬を捕らえて選別するための施設「捕込(とりこめ)」の跡も残っています。
 1776年(安永5年)には当時の鎌ケ谷宿に住んでいた大国屋福田文衛門が先祖の霊の冥福を祈るため大仏を作らせました。高さ1.8mもある釈迦如来像は、「鎌ケ谷大仏」と呼ばれ、最寄りの駅名も「鎌ケ谷大仏駅」になっています。この鎌ケ谷大仏は地域住人からの崇敬が高く、明治時代の廃仏毀釈や太平洋戦争中の金属供出も逃れ、1972年(昭和47年)には市の文化財に指定されています。
 明治時代になると牧は廃止されましたが、東京には失業者や生活に困っている武士たちが溢れていました。そこで人々を救済するため1869年(明治2年)に牧の廃止後の初富地区の開墾が始まりました。後の三井財閥になった三井八郎右衛門が、政府から20万両の開墾の出資を受け、豪商135人を選び開墾会社を作り、1869年(明治2年)に初富への入植が始まりました。「初富」という名前は最初に入植が行われた土地ということで名付けられたもので、その後入植順に二和、三咲、豊四季などと名づけられていきました。
 大正時代に入ると1923年(大正12年)に現在の東武野田線となった北総鉄道船橋線が開通し、1949年(昭和24年)には滝不動駅~鎌ケ谷大仏駅間で新京成線が開通。1979年(昭和54年)には北初富駅~小室駅間の北総線が暫定開業するなど、次第にアクセス環境が改善されていきました。
印旛沼
下総小金中野牧跡(野馬土手)
木下河岸跡
下総小金中野牧跡(捕込)

鎌ケ谷大仏
鎌ケ谷大仏
記念碑
1918年(大正7年)に建てられた開墾50周年記念碑

プロ野球が知名度向上に貢献し、さらに鎌ケ谷産商品を発進する
 日本ハムファイターズの2軍球場がある鎌ケ谷市は、プロ野球との関係も深い場所で、今はメジャーリーグで活躍しているような話題の選手が入団すると多くのファンが駆けつけ、スポーツニュースなどでも紹介されることで「鎌ケ谷市」の知名度アップに大きく役立っています。
 日本ハムファイターズの前身「東映フライヤーズ」時代は川崎市の多摩川河川敷に練習場と2軍の公式戦が行われるグラウンドがありました。その後、日拓ホーム、日本ハムファイターズとオーナー企業が変わっても、グラウンドはそのまま使われていましたが、河川敷は水はけが悪く、また設備の老朽化もあり、相模原市へ移転しました。しかし選手の移動などにも時間がかかり育成施設も改善が必要ということになり、1994年(平成6年)に鎌ケ谷に球場と室内練習場、合宿所からなる「ファイターズタウン鎌ケ谷」が完成しました。球団は鎌ケ谷事業部を設け、ファイターズと地元市民との結びつきを更に強めようとさまざまなイベントが企画、実施されています。
 2006年(平成18年)に鎌ケ谷市はファイターズの2軍球場のマスコットになっている「カビー・ザ・ベアー」を親善大使に任命し特別住民票を交付しました。「カビー・ザ・ベアー」は試合のない日やオフシーズンに、地元鎌ケ谷市を中心とした周辺地域の幼稚園、保育園へ出向き子供たちとの触れ合う活動を行うなど鎌ケ谷市とファイターズは強い結びつきを持った活動を行っています。
 鎌ケ谷市は、2021年(令和3年)から2026年(令和8年)まで、市の特性を活かした「食育」を総合的かつ計画的に推進していくため「第三次鎌ケ谷市食育推進計画」を策定し、「地産地消」になぞって「鎌産鎌消費」と銘打ち地元鎌ケ谷の食材についての学び、学校給食で積極的に使うようにしています。
 市内のイオンモールショッピングセンター内にオープンした企業組合「鎌ケ谷ブランド館」では、「鎌ケ谷ブランド館」を商標として使用できるようにし、「鎌ケ谷ブランド館」で取り扱う商品を「認定商品」に位置づけ、鎌ケ谷ブランド商品を取り扱う事業拠点として地域経済の活性化の推進を行っています。
ファイターズタウン鎌ケ谷
ファイターズタウン鎌ケ谷
鎌ケ谷ブランド館
鎌ケ谷ブランド館

(2022/8/10)
印西市(いんざいし)
地図
白鳥の里と千葉ニュータウン
 印西市は千葉県の北部に位置し、年間平均気温は15℃前後と比較的温暖な地域で、下総台地と利根川、印旛沼、手賀沼などから成る低地で構成されています。元々街の中心は北部の低地地区の木下(きおろし)だったため印西市役所もこの地域にあります
 低地は肥沃な土地が広がり米作を中心に野菜など農業が盛んです。また、本埜(もとの)地区にある「白鳥の郷」には白鳥の姿を求めて多くの観光客やカメラ愛好家がやってきます。この「白鳥の郷」は1992年(平成4年)に偶然農業用排水路工事で水をはっていた田んぼに6羽の白鳥がやってきたことが始まりで、餌付けを行ったところ毎年飛来数が増え続け、今では「白鳥の郷」として多くの人に知られるようになりました。
 一方、台地部はかつて畑や山林として利用されていましたが、「千葉ニュータウン」計画が始動し、1994年(平成6年)には日本医科大学印旛医療学園都市構想のもと日本医科大学千葉北総病院が開院するなど次第に人口は増加し、1996年(平成8年)に市町村合併が行われ印西市が誕生しました。
 市の人口の6割を占めるほどに成長した「千葉ニュータウン」地区には多くのショッピングセンターが進出しているため、商業の中心になっています。更に物流センターやデータセンターなどの企業も続々と進出しています。
 印西市のアクセス環境は、市の北部をJR東日本の成田線の我孫子支線が横断しており、木下駅と小林駅があります。市の中央部には北総線(京成成田線)が横断し、千葉ニュータウン中央駅、印西牧の原駅、印旛日本医大駅の4駅があります。
 高速道路は通っておらず、国道は市の北部の利根川に沿って356号線、千葉ニュータウン地区がある市の中央部に北総線に沿って464号線が通っています。
北総病院
北総病院
印西市役所
印西市役所

白鳥の郷
印西市本埜地区にある白鳥の郷
白鳥が飛来
田んぼにはたくさんの白鳥が飛来する

物流の拠点だった木下(きおろし)
 現在の印西市に人が住み始めたのは旧石器時代で、弥生時代には現在の手賀沼・印旛沼周辺に水田が作られ、水田を見下ろす台地に村が形成されていたようで、印旛沼周辺に多くの遺跡が見つかっています。
 江戸時代には松戸市東部と白井市のエリアに、幕府の軍馬の飼育や繁殖のために放牧しておく「牧」が置かれ、馬が放牧されていました。また、徳川家康が行った利根川東遷で印旛沼や手賀沼が作られたため、利根川水運が発達し木下河岸(きのしたがし)が設置されました。銚子沖で獲れた魚介類は銚子から木下河岸に水路で運ばれ、そこから江戸までは馬を使って陸路で江戸へと運ばれたことにより、木下は交通の要衝として栄えていきました。
 明治時代に入り物流の中心が水運から鉄道へと移行が始まり、印西市エリアにも木下駅と小林駅が開業し、駅周辺には街並みが形成されていきました。
 昭和に入ると主に郵便物を航空便で運ぶ民間機の操縦士を養成する必要性が高まり、1938年(昭和13年)頃から全国に航空機乗員養成所の設置が始まりました。ここで養成された操縦士は、有事の際には軍に動員し活用できることから、1942年(昭和17年)に現在の「印西牧の原駅」周辺にも「印旛地方航空機乗員養成所」が作られました。この養成所は、太平洋戦争の戦況が悪化した1944年(昭和19年)に旧陸軍航空基地と兼用になり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配置されました。
 太平洋戦争後には飛行場は解体され、印西は入植地として戦地除隊者や満州引揚者などによって開拓が行われました。現在国道464号線の南に並行に走る二車線道路の南側にあるいくつもの側道が連結している場所は、その当時の名残として残ったものです。
印旛沼
利根川東遷で整備された印旛沼
木下河岸跡
木下河岸跡

木下駅(南口)
木下駅(南口)
木下駅南口商店街
木下駅南口商店街

現代の物流拠点と「情報城下町」になった「INZAI」
 1950年代にはそれまでの団地に代わって日本各地でニュータウンの造成が始まり、1967年(昭和42年)に「印西都市計画千葉北部地区新住宅市街地開発事業」(千葉ニュータウン)の都市計画が決定しました。この地域は標高が高いため水害のリスクが低く、また下総台地の強固な地盤で大地震の発生源となる活断層が無いことから「住みよい街ランキング」の上位に名前を連ねるほどになりました。
 1984年(昭和59年)には北総鉄道北総線(千葉ニュータウン線)が開通し、それに沿って国道464号が開通したため、造成された土地には続々と大規模な物流センターが建設されました。
 また、その強固な地盤を生かした大規模なデータセンターが集積する「データセンター銀座」として海外にも知られるようになりました。ネット通販の最大手「アマゾン」、「Amazon Web Services」、Googleなど大規模なデータセンターが作られており、世界中の企業のデータセンターが集まる「情報城下町」として「INZAI」はその名前を知られるようになりました。
 かつては木下河岸を中心に物流拠点として発展し賑わいを見せた印西市は、今人気の住みよい街として、更に現代の物流拠点そしてデータの拠点として発展し続けています。世界にも名前が広がっている「印西市」のこれからに注目です。
印西中央駅の周辺
大規模なマンションが立ち並ぶ印西中央駅の周辺
物流センター
印西中央駅にほど近い場所に立てられた物流センター

Googleのデータセンター
建設途中のGoogleのデータセンターとみられる建物
目白押し
物流センターの件地目も目白押し

(2022/7/8)
四街道市(よつかいどうし)
地図
四つの街道に繋がるまち
 四街道市は千葉県の中北部の下総台地の南に位置し、太平洋気候のため夏は比較的高温で、冬は降水量が少ない地域です。市の北部は平坦な台地で南部は起伏が多く、古くから低地では稲作、台地上では畑作が盛んに行われてきました。
 「四街道」の由来になったとされる四街道十字路には「成田山道」「千葉町道」「東金道」「船橋道」と彫ってある道標があり、その道標を中心に街道が延びている事から「四つ角」が変化して「四街道」と呼ばれるようになったとされています。
 千葉市内に隣接し東京都心へも近い利便性の高い地域のため、JR四街道駅周辺にはマンションや住宅地が立ち並び、首都圏のベッドタウンとして発展しました。1981年(昭和56年)の国勢調査で人口が約6万人と、市政規定人口の5万人を超えたため、1981年(昭和56年)に市制が施行されました。
 市の東部には農地が広がり、大都市周辺で行われる都市部に新鮮な農産物を周年的に供給する「近郊農業」が行われ、各種野菜のほか梨や落花生が特産になっています。また、市の北部には四街道工業団地があります。
 四街道市への鉄道のアクセスはJR東日本の総武本線が横断しており、市内には四街道駅と物井駅の2駅があります。高速道路は、東日本自動車道が北部を横断し、四街道インターチェンジがあります。また、国道は51号が市の南部を横断しています。
四街道の道標
市名の由来となった四街道の道標
四街道駅(北口)
四街道駅(北口)

四街道工業団地
四街道工業団地
四街道市役所
四街道市役所

かつて軍都として栄えたまち
 現在の四街道市はかつて鎌倉時代から室町時代には「千葉氏」の所領で、その後江戸時代に入ってからは佐倉藩の領地となりました。
 長崎と共に蘭学が盛んであった佐倉藩は、西洋式の高島流砲術へ切り替えるにあたり砲術射的の標的を新たに築造し、西洋砲術練習を明治初期まで行っていました。その後明治政府は、1873年(明治6年)に陸軍指導者としてフランス陸軍ジョルジュ・ルボン砲兵大尉を招き、大尉の指導により「大土手山」を改築し、1886年(明治19年)には陸軍砲兵射的学校も設立されました。このため標的だった大土手山は「ルボン山」とも呼ばれるようになりました。また、四街道は砲兵学校が造られたことにより「軍都」として発展を遂げていき、1890年(明治23年)には市川~佐倉間に開通した千葉県初の私鉄「総武鉄道」の四街道駅、物井駅が造られました。
 旧陸軍施設の跡地は太平洋戦争終戦後、現在の「陸上自衛隊下志津駐屯地」以外は宅地・行政・文教・商業施設などに転換されました。
 1985年(昭和60年)には千葉市や都心に通勤する人々に向けた住宅地としてめいわ地区の開発がスタートし、街のシンボルを作ろうと1992年(平成4年)に初めて作られたのが「ガス灯」で、228基が設置されその数は日本一になりましたが、2016年(平成28年)にはその面影を残しつつLED化されています。
陸軍砲兵学校跡の碑
陸軍砲兵学校跡の碑
ルボン山
大土手山(ルボン山)

ガス灯LED化
日本一だったガス灯は現在LED化されている
LED化された元ガス灯
めいわ地区の住宅地沿いに並ぶLED化された元ガス灯

市民自らも四街道市を発信する「まち撮り四街道」
 2014年(平成26年)からスタートした四街道市の「総合計画」では子育て世代の流入を推進し、人口増加とバランスのとれた人口構成の確保を目指し「四街道 未来創造プロジェクト」を展開しています。その重点プロジェクトのひとつとして「シティセールスプロジェクト」を推進すると共に、2022年(令和4年)3月にはシティセールスロゴマークを作成し、今後の展開に活用していくことになっています。
 また四街道市は千葉市、市原市と連携し、子ども・子育て支援環境の整備等について3市で検討を行い、新たな連携の実現に向けた協議を進めていくことになっています。
 一方、四街道市民がかかわる地域づくりを推進する「みんなで地域づくり」を進めるため、「シティセールス推進課」を設置し、2015年(平成27年)から2017年(平成29年)までは市民自らが発信するシティセールスプロジェクト「ドラマチック四街道」を展開しました。
 更に2022年(令和4年)からは「まち撮り四街道」として市民活動などまちで活躍されている方にスポットを当てて応援するとともに、残していきたい風景を発信していくそうです。
 このようにシティプロモーションを展開していった成果として東洋経済社の「都市データパック」編集部が調査した「住みよさランキング」では、コロナ禍が後押しした要因もあるかもしれませんが全国で181位、千葉県内では8位にランキングされています。
 都心に近い四街道市は、市民参加が参加するシティプロモーションで「住みよさランキング」が更にアップしていくことでしょう。
みんなで地域づくりセンター
文化センターの中にある「みんなで地域づくりセンター」
駅周辺
多くの住宅を見ることができる駅周辺

(2022/6/10)
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