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ちばのたね
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千葉の人でも意外と知らなかった特徴と魅力。
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ちばのたね バックナンバー(37~48)
木更津市(きさらづし)
地図
証城寺の狸林の郷
 木更津市は千葉県の中部の東京湾に面していて東西に長く、東側は台地や房総丘陵に、西側は平地になっています。県内では利根川に次いで長い小櫃川(おびつがわ)河口から東京湾に広がる干潟は盤洲干潟(ばんすひがた)と呼ばれ、日本の重要湿地500の指定地になっています。
 産業の中では第三次産業の就業者数が7割を占めており、農業は稲作が中心ですが減少傾向にあります。漁業は海苔養殖や貝類養殖は盛んで、潮干狩りの季節には多くの観光客を集めています。
 工業は、君津市の沿岸部にある京葉工業地帯に日本製鉄所関連の工場があり、内陸部の「かずさアカデミアパーク」は研究開発型企業を中心に誘致を進められています。
 木更津駅近くにある護念山証城寺には「深夜になるとどこからともなく、笛や太鼓などの囃子の音が聞こえてくる」という伝説があり、詩人で童謡作詞家の野口雨情が木更津を訪れた際にこの伝説を聞いて書かれたのが、有名な童謡の「証城寺の狸囃子」です。
 また、ドラマ「木更津キャッツアイ」の聖地として、更にロックバンド「気志團」結成の地としても知られています。潮干狩りが行われている江川海岸の海中電柱は、海に建つ不思議な電柱としてインスタスポットとしても有名になるなどの側面も持っています。
 木更津市への交通アクセスは、市内沿岸部にJR東日本の内房線が通っており、巌根駅(いわねえき)、木更津駅の2駅が、また木更津駅から君津市の内陸部の上総亀山駅までを走るJR東日本のローカル線の久留里線には、市内に木更津駅、祇園駅、上総清川、東清川、馬来田駅の5駅があります。
 道路は東関東自動車道館山線が市内を縦断し、木更津北インターチェンジと木更津南インターチェンジの2つがあります。この自動車道は、東京湾アクアラインに繋がる首都圏中央連絡自動車道(国道468号線)を横断し、東関東自動車道館山線とも連結しており、木更津東インターチェンジ、袖ヶ浦インターチェンジ、木更津金田インターチェンジの3つのインターチェンジがあり、道路事情に恵まれています。国道は沿岸部を16号線と127号線が、東部を410号線が縦断しています。
盤洲干潟
盤洲干潟
工業地帯
沿岸部に広がる工業地帯

海中電柱
海に電柱が建っている不思議な光景 江川海岸海中電柱
歌碑
証城寺にある「証城寺の狸囃子」の歌碑

海運の要衝からアクアラインで交通の要衝へ
 古くから栄えていた木更津市には様々な伝説が残っています。神話では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に向かう途中、東京湾の入り口付近までたどり着いたものの、海神の怒りで海が荒れ狂い先に進むことができなくなり、海神の怒りを解くため、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が入水して荒れた海を鎮め、無事に東京湾を渡り切ることができました。木更津に上陸した日本武尊は、太田山から東京湾を眺めて妃の死を悼み、その場からいつまでも立ち去らなかったということです。この神話から「君(日本武尊)が立ち去らず→きみ、さらず→きさらづ」と、木更津という地名の語源になったといわれています。
 また、鎌倉幕府を開府した源頼朝の伝説では、1180年(治承4年)に石橋山の戦いで平家に敗れ、房総半島に渡って再起をはかったことから、市内の八剱八幡神社に神領を寄進して社殿を造営したという伝えがあり、八剱八幡神社の境内には頼朝御手植えと伝わる蘇鉄があります。
 江戸時代になると幕府は主要河川に橋を架けることを禁止し、関所を設けるなどの政策を行ったため、物流は水運が中心になったことで木更津は上総や安房 と江戸を結ぶ海運の拠点として急激に発展しました。
 明治時代に入ると廃藩置県によって1871年(明治4年)に木更津県が設置されましたが、1873年(明治6年)には廃止となり千葉県が誕生しました。
 時代が大正、昭和へと日本が軍国主義へと進んでいく中で、木更津は次第に軍都として発展し、1935年(昭和10年)に大日本帝国海軍は木更津港北側を埋め立てて航空基地の造成を行いました。その跡地は現在の陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所になっています。
 戦後の1950年(昭和25年)には東京湾沿岸地域の工業地帯化が計画され、君津に君津製鉄所ができると、木更津市内に同社の系列・関連会社が進出し、社員の移住が顕著になりました。
 1983年(昭和58年)には千葉県三角構想が策定され、研究開発拠点の母都市になる「かずさアカデミアパーク」が整備され、1994年(平成6年)にはDNA専門の研究所としては世界初の「かずさDNA研究所」が開設されました。
きみさらずタワー
日本武尊と弟橘媛の像があるきみさらずタワー
木更津駐屯地
現在の陸上自衛隊 木更津駐屯地

八剱八幡神社
八剱八幡神社
蘇鉄
頼朝御手植えの蘇鉄

重要な役割を果たした金田地区の発展
 1997年(平成9年)に開通した東京湾アクアラインは、期待されていたかずさアカデミアパークや宅地造成地の計画、東京のベッドタウンとしての需要をほとんど発生させず、逆に流出してしまうというストロー効果を生じさせてしまいました。更に1991年(平成3年)にはじまったバブル崩壊で地価の下落と共に駅前の大型店舗の撤退が相次ぐなど、木更津駅前もかつての賑わいを無くしてしまう事態に陥ってしまいました。
 千葉県は対策としてアクアラインの通行料金の値下げにより改善を図ると共に、1998年(平成10年)には「金田地区土地区画整理事業」が認可され、UR都市機構と共に「かずさアクアシティ」として開発が始まりました。2012年(平成24年)には「三井アウトレットパーク木更津」がオープンし、同年「カインズモール木更津金田」もオープンするなど大型商業施設が続々とオープンしました。また、2016年(平成28年)には遊園地の「木更津かんらんしゃパーク キサラピアがオープン」、続いて高速バスターミナルがオープンするなど商業、業務、流通、文化、レジャー施設が住宅と共生する多機能複合型の都市開発が進められ、現在は木更津の人気が急上昇し、人口も増加傾向で休日には県外からも多くの買い物客が訪れ、大いに賑わっています。
 かつては上総・安房 ~江戸間の海上輸送を取り扱う流通拠点として栄えた木更津市は、アクアラインによって房総半島への新たな入り口を得たことで、これからも更に賑わっていくでしょう。
東京湾アクアライン
東京湾アクアライン
遊園地KISARAPIA
金田地区に出来た遊園地KISARAPIA

中の島大橋
中の島大橋
恋人の聖地
恋人の聖地

(2022/11/10)
成田市(なりたし)
地図
成田山新勝寺と空港の街
 成田市は千葉県北部の下総台地に位置し、年間を通して温暖な気候に恵まれており、「業務核都市」の「成田都市圏」の中心都市として「国家戦略特区」「構造改革特区」「拠点空港都市」「国際会議観光都市区」及び「国際観光モデル地」など、さまざまな役割を担っています。更に千葉県が策定した「千葉新産業三角構想」では「幕張新都心構想」「かずさアカデミアパーク構想」に並び「成田国際空港都市構想」に位置づけられるなど千葉県下でも重要な役割を担っています。
 成田市の市街は江戸時代に成田山新勝寺の門前町として栄え、その歴史的な町並みは日本遺産にも認定され、初詣参拝者は明治神宮に次いで全国2位を誇っています。
 市内の農業は台地部の山林と畑が混在している土地では野菜や落花生などが栽培され、低地部は稲作が行われているものの、全般的に減少傾向にあります。また、第二次産業は3つの工業団地とひとつの物流団地があり、その多くは空港に関連した企業です。第三次産業は、成田空港に関連する事業の大半が第三次産業に該当するため、第三次産業従事者が最も多くなっています。
 成田市へのアクセス環境は充実しており、JR東日本の成田線が市の南部から北部へ縦断している他、成田空港に向かう支線が市を横断しています。京成線も市を横断し成田空港まで通っています。一方道路は東関東自動車道が市の南から東方向に縦断し成田インターチェンジがあり、そこから成田国際空港線が分岐し成田空港まで通っています。東関東自動車道の大栄インターチェンジからは自動車専用道路の国道468号(圏央道)も通っており、都内を通ることなく常磐自動車道へのアクセスができるようになりました。一般国道は51号線(成田街道)が西側を縦断しており、西側には国道408号が縦断しています。
落花生畑
落花生畑
成田空港
成田空港

成田山新勝寺
成田山新勝寺
JR成田駅
JR成田駅

新勝寺の門前町成田が世界の玄関口に
 成田市周辺には旧石器時代の遺跡が多数発見され、古くから人が居住していたことがわかります。水運に恵まれ、大和政権にとって重要なルート上に位置し、政治・軍事・経済上重要な地域とされていたようです。
 平安時代に起こった「平将門の乱」で朝廷は将門の悪行を制するため、京都の神護寺に安置されていた空海作の不動明王像を下総国に送り祈願し、無事勝利を得ました。それを機に東国鎮護の霊場を作ることになったのが、成田山新勝寺の始まりです。 その後戦国時代には、社会の混乱で新勝寺は荒廃していましたが、江戸時代になり世情が落ち着くと再建・整備されました。庶民も利根川水運を利用し江戸から気軽に観光できるようになり、香取神宮、鹿島神宮、息栖(いきす)神社の東国三社詣など千葉を訪れる観光客が増えていきました。新勝寺自体も江戸に出向いて不動尊を開帳するなど普及活動を行ったことで、庶民の旅行先としても人気の場所になっていきました。
 更に、歌舞伎役者の初代市川團十郎が子授けを祈願したところ、無事待望の長男が誕生し、市川家との結び付きが強くなり「成田屋」の屋号を名乗るようになったのも成田山新勝寺の知名度を上げたひとつになるでしょう。
 明治時代に入ると1901年(明治34年)に成田―我孫子間を走る「成田鉄道」が開通し、現在の常磐線と連結しアクセスが向上しました。1910年(明治43年)には、成田門前―成田駅間を成宗電気軌道が運行を開始し、成田山詣でなどの観光客の足となり、益々賑わいを見せるようになり、門前町としての反映も続きました。
 農業と観光客で繁栄してきた成田ですが、1966年(昭和41年)「新東京国際空港建設計画」が発表され更に新しい局面が展開することになりました。しかし、空港建設計画は簡単にはいきませんでした。地元住人達の反対同盟が結成され、三里塚闘争が起こり、この混乱が収まらないまま1978年(昭和53年)に成田国際空港が開港しました。
不動明王が上陸した地
横芝光町にある成田山の不動明王が上陸した地
といわれている
成田山新勝寺本堂
成田山新勝寺本堂

市川團十郎の石像
額堂にある七代目市川團十郎の石像
成田山参道
参拝客でにぎわう成田山参道

観光、航空貨物更にベッドタウンとして発展する成田
 成田国際空港ができたことで、成田市は東京一極集中回避を目的にした「業務核都市」に指定され、地域の特性に応じて「規制の特例」を導入する構造改革特区のうち「国際空港特区」と「国際教育推進特区」「国家戦略特区」に認定され、国の重要な拠点として位置づけられました。また、成田国際空港が日本への玄関口で、成田山新勝寺を始め外国人の観光客が多く訪れることから、「拠点空港都市」更に「国際観光都市」「国際観光モデル地区」にもなるという全国でも特別な都市になっています。2020年度(令和2年度)のデータでも国際線は成田が全国1位になっています。
 また、国際航空貨物の拠点としても成田空港は重要な役割を果たしています。千葉県は成田周辺地区を空港関連産業・国際物流の集積や食料供給基地としての役割を推進しており、物流施設立地促進のためのインフラ整備・規制緩和、効率的な物流システムの構築も進めています。その政策の結果、2021年度(令和3年度)の成田空港の国際貨物取扱高は、世界5位になっています。
 一方、成田市はアクセスの良さからベッドタウンとしての成田も発展を続けています。1968年(昭和43年)に着手された成田ニュータウンはその後拡大を続け、2009年(平成21年)の東洋経済新報社が調査した「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」の4つの観点から住みやすい都市を評価する「住みよさランキング」では、成田市は全国総合1位を獲得するなどベッドタウンとしても高く評価されています。
 このように成田市は日本の玄関口として、物流の一大拠点として、更に観光、ベッドタウンとして発展し続けるでしょう。
地方卸売市場
新しくなった成田市公設地方卸売市場
物流拠点
物流拠点

成田ニュータウン
成田ニュータウン
ショッピングモール
ショッピングモール

(2022/10/11)
我孫子市(あびこし)
地図
手賀沼湖畔のベッドタウン
 我孫子市は千葉県の北西部で南北に長い市で、利根川と手賀沼に挟まれた下総台地にあります。千葉県内の中では最も寒冷な気候のため、熱帯夜になる日は少ない地域です。
 第一次産業は大都市周辺で行われる近郊農業が盛んで、利根川沿いと手賀沼沿いを中心に稲作が、下総台地上の地域には野菜が生産されており、手賀沼のフナや鯉、うなぎなどの漁業も行われています。第二次産業は全体の17%程度と低く、第二次産業よりは第三次産業の方が多いのが特徴で、ベッドタウンとして成長してきたことによるものでしょう。
 古くから栄えてきた我孫子市には難読地名が多く、岡発戸(おおかほっと)、下ケ戸(さげと)、都部(いちぶ)、中峠(なかびょう)、日秀(ひびり)、江蔵地(えぞち)など市外の人たちでは読めないような地名があります。
 鉄道は市の西側をJR東日本の常磐線が通っており、市内には我孫子駅、天王台駅の2駅があります。また、我孫子駅からは成田駅まで延びる我孫子支線が分岐し市を横断しており、この支線には東我孫子駅、湖北駅、新木駅、布佐駅の4駅があります。 我孫子がベッドタウンとして人気が高いのは、常磐線に繋がるJR東日本の上野東京ラインを利用すれば我孫子―東京駅間が最速38分、また東京メトロ千代田線を利用すると我孫子―大手町駅間が最速50分と、電車を使った都心へのアクセスが良いことです。
 一方、市内に高速道路や自動車専用道路は通っておらず、市の北西部を国道6号線が、また6号線から分岐した国道356号線が市の東西を横断している程度と道路のアクセスは鉄道へのアクセスよりやや見劣り感があります。
手賀沼
手賀沼
生涯学習センター
手賀沼湖畔に建つ生涯学習センター

手賀沼公園
手賀沼公園
貸しボート
貸しボートが並ぶ手賀沼公園

白樺派の街
 我孫子市周辺は旧石器時代から人類が住んでいたと思われる痕跡が残っており、江戸時代に利根川水運が発達したことで、特に東端の布佐地区は利根川の主要な河岸として栄えました。また街道も水戸街道が通っており、我孫子宿ができたことで交通の要衝となっていました。
 1911年(明治44年)、教育者そして柔道の父として知られている嘉納治五郎が別荘と農園を作りました。その後、治五郎の甥で美術評論家、そして宗教哲学者でもあった柳宗悦(やなぎむねよし)が1914年(大正3年)移住するなど多くの文化人達が住むようになり、大正から昭和初期にかけて「北の鎌倉」といわれていました。
 柳の移住がきっかけで、志賀直哉や武者小路実篤も移住してくるなど、文学同人誌「白樺」を中心に理念や作風を共有していた「白樺派」の作家達や文化人が居住するようになりました。このように白樺派の文化人達のかかわりが多かったことから、我孫子の白樺派の歴史を後世に伝えるため「白樺文学館」が作られました。
 1934年(昭和9年)高知県室戸岬付近に上陸した「室戸台風」が京阪神地方を中心に甚大な被害をもたらしたことがきっかけで、気象学者の岡田武松が気象通信網の整備の必要性を唱え、1938年(昭和13年)に現在の我孫子市の布佐に高さ30メートルの大鉄塔と鉄筋コンクリート造りの送信所で構成された「中央気象台出張所」を設立しました。当時気象情報は軍事機密事項になっており、国防上にも重要な役割をしていました。
 1941年(昭和16年)には高層気象観測の業務は廃止となり、その後他の測候所との連絡用無線施設として機能していました。やがて1999年(平成11年)に衛星通信の実用化がはじまり、この施設は閉鎖され、跡地は現在「気象台記念公園」として活用されています。このような経緯があったためか、公園の一部には今も地域気象観測所(アメダス)の設備が置かれています。
嘉納治五郎邸跡
天神山緑地として残されている嘉納治五郎邸跡
嘉納治五郎像
天神山緑地にある嘉納治五郎像

志賀直哉邸跡
志賀直哉邸跡
白樺文学館
白樺文学館

気象台記念公園
気象台記念公園
アメダス
気象台記念公園に設置されたアメダス

日本一汚濁した湖沼からの脱出
 東西に細長い我孫子市の南側に面している手賀沼は、昭和20年代までは透き通った水で、夏は子供が泳ぐなど非常にきれいな状態でした。しかし、昭和30年代の高度経済成長期に入ると、生活排水が沼を汚し水質を悪化させ、それによって異常増殖した植物プランクトンによって水質汚濁が進みました。環境省が行った水質調査では1974年(昭和49年)から2000年(平成12年)までの27年間「日本一汚濁した湖沼」という不名誉な記録を続けていました。
 国は手賀沼から利根川への排水と、逆に利根川から取水した水を手賀沼に注水するなど、他の川との排・受水対策を行うと共に、県は堆積したヘドロの除去など改善を進めてきました。このような活動のおかげで2002年(平成14年)の水質調査の結果、ワースト1を返上しました。
 その後も我孫子市はかつての手賀沼を取り戻すため公共下水道の改善を行うと共に、市民には浄化啓発や生息している生き物を紹介するパンフレットを作成し配布しています。また2010年(平成22年)から毎年12月の第一日曜日は、市民参加型の手賀沼周辺の清掃などの取り組みを行っている他、地域団体やボランティアなど、市民自らが手を上げ、手賀沼浄化と生息する動植物の保護を目的にした活動も行われています。
 かつての透き通った手賀沼が戻ってくるまでにはまだ道半ばですが、市民が積極的に取り組んでいる姿がこれからの我孫子市の良さを示しているような気がします。白樺派文化人に愛され、手賀沼を中心に豊かな自然に囲まれた我孫子市は、東京駅から最短38分と都心へのアクセスに優れたベッドタウンとしてこれからも発展していくでしょう。
水の館
手賀沼親水広場に建てられた「水の館」
市民ボランティア
手賀沼周辺を清掃する市民ボランティア

(2022/9/9)
鎌ケ谷市(かまがやし)
地図
ゆれにくい街鎌ケ谷
 鎌ケ谷市は千葉県北西部に位置し、下総台地と谷津田で構成されている大地です。標高が約13m~28mと隣接する市に比べて比較的高いため水没しにくいといわれています。また、千葉県が作成した「同じ強さの地震の場合に相対的に揺れやすいか」を図化した「ゆれやすさマップ」によると、鎌ケ谷市の周辺にはマグニチュード7以上の地震が心配される活断層は無く、プレート境界型地震でも震度6以上の地震になる可能性が低いということから「都心に近い千葉県北西部」のなかでも「ゆれにくい」ことがわかりました。そのことから鎌ケ谷市は「ゆれにくい街鎌ケ谷」をアピールし、企業誘致や新鎌ケ谷地区の住宅開発を推進しています。
 産業は農業が盛んで、県内でも有数の梨の産地として知られていますが、他にもブドウやサツマイモなどの観光農園もあります。1983年(昭和58年)に鎌ケ谷市は特産の梨を生かして梨ワインと日本初の梨ブランデーを開発しました。その後、鎌ケ谷梨ワイン・ブランデー株式会社が設立され、市から事業を引き継いでいます。
 鎌ケ谷市への鉄道アクセスは、市の中心部に位置する新鎌ケ谷地域を中心に東西南北に放射状に鉄道路線が引かれています。京成成田空港線が市を横断し、北初富、新鎌ケ谷の2駅が、縦断する東武野田線(愛称:東武アンバーパークライン)には鎌ケ谷駅、新鎌ケ谷駅の2駅、市の南東部から北西部にかけて縦断している新京成線には、くぬぎ山、北初富、新鎌ケ谷、初富、鎌ケ谷大仏の5駅があります。高速道路は通っておらず、国道は464号線が縦断しています。
梨
特産の梨
梨ワイン
特産の梨ワイン

江戸の終焉と開墾が今の鎌ケ谷の礎を作った
 鎌ケ谷市には縄文時代の貝塚がいくつか発見されており、そのうち貝殻山公園の西側には県内でも規模・内容共に有数の中沢貝塚があり、この地域に古くから人が住んでいたことが伺えます。
 鎌倉時代、現在の茨城県から千葉県にまたがり鎌ケ谷市の一部も含んでいた相馬郡は、千葉常胤の次男の相馬師常(そうま もろつね)が父から相続したことがはじまりで相馬氏が所領としていました。
 江戸時代には本多氏が鎌ケ谷市の一部を所領としており、また幕府が作った「小金中野牧」があった場所で、野生馬の供給地になっていました。村人は牧で放し飼いされている野馬(馬)が畑の作物を食い荒らさないように村と牧の境に「野馬除け(のまよけ)」の土手を作って防いでいました。また、牧で飼われていた野馬を捕らえて選別するための施設「捕込(とりこめ)」の跡も残っています。
 1776年(安永5年)には当時の鎌ケ谷宿に住んでいた大国屋福田文衛門が先祖の霊の冥福を祈るため大仏を作らせました。高さ1.8mもある釈迦如来像は、「鎌ケ谷大仏」と呼ばれ、最寄りの駅名も「鎌ケ谷大仏駅」になっています。この鎌ケ谷大仏は地域住人からの崇敬が高く、明治時代の廃仏毀釈や太平洋戦争中の金属供出も逃れ、1972年(昭和47年)には市の文化財に指定されています。
 明治時代になると牧は廃止されましたが、東京には失業者や生活に困っている武士たちが溢れていました。そこで人々を救済するため1869年(明治2年)に牧の廃止後の初富地区の開墾が始まりました。後の三井財閥になった三井八郎右衛門が、政府から20万両の開墾の出資を受け、豪商135人を選び開墾会社を作り、1869年(明治2年)に初富への入植が始まりました。「初富」という名前は最初に入植が行われた土地ということで名付けられたもので、その後入植順に二和、三咲、豊四季などと名づけられていきました。
 大正時代に入ると1923年(大正12年)に現在の東武野田線となった北総鉄道船橋線が開通し、1949年(昭和24年)には滝不動駅~鎌ケ谷大仏駅間で新京成線が開通。1979年(昭和54年)には北初富駅~小室駅間の北総線が暫定開業するなど、次第にアクセス環境が改善されていきました。
印旛沼
下総小金中野牧跡(野馬土手)
木下河岸跡
下総小金中野牧跡(捕込)

鎌ケ谷大仏
鎌ケ谷大仏
記念碑
1918年(大正7年)に建てられた開墾50周年記念碑

プロ野球が知名度向上に貢献し、さらに鎌ケ谷産商品を発進する
 日本ハムファイターズの2軍球場がある鎌ケ谷市は、プロ野球との関係も深い場所で、今はメジャーリーグで活躍しているような話題の選手が入団すると多くのファンが駆けつけ、スポーツニュースなどでも紹介されることで「鎌ケ谷市」の知名度アップに大きく役立っています。
 日本ハムファイターズの前身「東映フライヤーズ」時代は川崎市の多摩川河川敷に練習場と2軍の公式戦が行われるグラウンドがありました。その後、日拓ホーム、日本ハムファイターズとオーナー企業が変わっても、グラウンドはそのまま使われていましたが、河川敷は水はけが悪く、また設備の老朽化もあり、相模原市へ移転しました。しかし選手の移動などにも時間がかかり育成施設も改善が必要ということになり、1994年(平成6年)に鎌ケ谷に球場と室内練習場、合宿所からなる「ファイターズタウン鎌ケ谷」が完成しました。球団は鎌ケ谷事業部を設け、ファイターズと地元市民との結びつきを更に強めようとさまざまなイベントが企画、実施されています。
 2006年(平成18年)に鎌ケ谷市はファイターズの2軍球場のマスコットになっている「カビー・ザ・ベアー」を親善大使に任命し特別住民票を交付しました。「カビー・ザ・ベアー」は試合のない日やオフシーズンに、地元鎌ケ谷市を中心とした周辺地域の幼稚園、保育園へ出向き子供たちとの触れ合う活動を行うなど鎌ケ谷市とファイターズは強い結びつきを持った活動を行っています。
 鎌ケ谷市は、2021年(令和3年)から2026年(令和8年)まで、市の特性を活かした「食育」を総合的かつ計画的に推進していくため「第三次鎌ケ谷市食育推進計画」を策定し、「地産地消」になぞって「鎌産鎌消費」と銘打ち地元鎌ケ谷の食材についての学び、学校給食で積極的に使うようにしています。
 市内のイオンモールショッピングセンター内にオープンした企業組合「鎌ケ谷ブランド館」では、「鎌ケ谷ブランド館」を商標として使用できるようにし、「鎌ケ谷ブランド館」で取り扱う商品を「認定商品」に位置づけ、鎌ケ谷ブランド商品を取り扱う事業拠点として地域経済の活性化の推進を行っています。
ファイターズタウン鎌ケ谷
ファイターズタウン鎌ケ谷
鎌ケ谷ブランド館
鎌ケ谷ブランド館

(2022/8/10)
印西市(いんざいし)
地図
白鳥の里と千葉ニュータウン
 印西市は千葉県の北部に位置し、年間平均気温は15℃前後と比較的温暖な地域で、下総台地と利根川、印旛沼、手賀沼などから成る低地で構成されています。元々街の中心は北部の低地地区の木下(きおろし)だったため印西市役所もこの地域にあります
 低地は肥沃な土地が広がり米作を中心に野菜など農業が盛んです。また、本埜(もとの)地区にある「白鳥の郷」には白鳥の姿を求めて多くの観光客やカメラ愛好家がやってきます。この「白鳥の郷」は1992年(平成4年)に偶然農業用排水路工事で水をはっていた田んぼに6羽の白鳥がやってきたことが始まりで、餌付けを行ったところ毎年飛来数が増え続け、今では「白鳥の郷」として多くの人に知られるようになりました。
 一方、台地部はかつて畑や山林として利用されていましたが、「千葉ニュータウン」計画が始動し、1994年(平成6年)には日本医科大学印旛医療学園都市構想のもと日本医科大学千葉北総病院が開院するなど次第に人口は増加し、1996年(平成8年)に市町村合併が行われ印西市が誕生しました。
 市の人口の6割を占めるほどに成長した「千葉ニュータウン」地区には多くのショッピングセンターが進出しているため、商業の中心になっています。更に物流センターやデータセンターなどの企業も続々と進出しています。
 印西市のアクセス環境は、市の北部をJR東日本の成田線の我孫子支線が横断しており、木下駅と小林駅があります。市の中央部には北総線(京成成田線)が横断し、千葉ニュータウン中央駅、印西牧の原駅、印旛日本医大駅の4駅があります。
 高速道路は通っておらず、国道は市の北部の利根川に沿って356号線、千葉ニュータウン地区がある市の中央部に北総線に沿って464号線が通っています。
北総病院
北総病院
印西市役所
印西市役所

白鳥の郷
印西市本埜地区にある白鳥の郷
白鳥が飛来
田んぼにはたくさんの白鳥が飛来する

物流の拠点だった木下(きおろし)
 現在の印西市に人が住み始めたのは旧石器時代で、弥生時代には現在の手賀沼・印旛沼周辺に水田が作られ、水田を見下ろす台地に村が形成されていたようで、印旛沼周辺に多くの遺跡が見つかっています。
 江戸時代には松戸市東部と白井市のエリアに、幕府の軍馬の飼育や繁殖のために放牧しておく「牧」が置かれ、馬が放牧されていました。また、徳川家康が行った利根川東遷で印旛沼や手賀沼が作られたため、利根川水運が発達し木下河岸(きのしたがし)が設置されました。銚子沖で獲れた魚介類は銚子から木下河岸に水路で運ばれ、そこから江戸までは馬を使って陸路で江戸へと運ばれたことにより、木下は交通の要衝として栄えていきました。
 明治時代に入り物流の中心が水運から鉄道へと移行が始まり、印西市エリアにも木下駅と小林駅が開業し、駅周辺には街並みが形成されていきました。
 昭和に入ると主に郵便物を航空便で運ぶ民間機の操縦士を養成する必要性が高まり、1938年(昭和13年)頃から全国に航空機乗員養成所の設置が始まりました。ここで養成された操縦士は、有事の際には軍に動員し活用できることから、1942年(昭和17年)に現在の「印西牧の原駅」周辺にも「印旛地方航空機乗員養成所」が作られました。この養成所は、太平洋戦争の戦況が悪化した1944年(昭和19年)に旧陸軍航空基地と兼用になり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配置されました。
 太平洋戦争後には飛行場は解体され、印西は入植地として戦地除隊者や満州引揚者などによって開拓が行われました。現在国道464号線の南に並行に走る二車線道路の南側にあるいくつもの側道が連結している場所は、その当時の名残として残ったものです。
印旛沼
利根川東遷で整備された印旛沼
木下河岸跡
木下河岸跡

木下駅(南口)
木下駅(南口)
木下駅南口商店街
木下駅南口商店街

現代の物流拠点と「情報城下町」になった「INZAI」
 1950年代にはそれまでの団地に代わって日本各地でニュータウンの造成が始まり、1967年(昭和42年)に「印西都市計画千葉北部地区新住宅市街地開発事業」(千葉ニュータウン)の都市計画が決定しました。この地域は標高が高いため水害のリスクが低く、また下総台地の強固な地盤で大地震の発生源となる活断層が無いことから「住みよい街ランキング」の上位に名前を連ねるほどになりました。
 1984年(昭和59年)には北総鉄道北総線(千葉ニュータウン線)が開通し、それに沿って国道464号が開通したため、造成された土地には続々と大規模な物流センターが建設されました。
 また、その強固な地盤を生かした大規模なデータセンターが集積する「データセンター銀座」として海外にも知られるようになりました。ネット通販の最大手「アマゾン」、「Amazon Web Services」、Googleなど大規模なデータセンターが作られており、世界中の企業のデータセンターが集まる「情報城下町」として「INZAI」はその名前を知られるようになりました。
 かつては木下河岸を中心に物流拠点として発展し賑わいを見せた印西市は、今人気の住みよい街として、更に現代の物流拠点そしてデータの拠点として発展し続けています。世界にも名前が広がっている「印西市」のこれからに注目です。
印西中央駅の周辺
大規模なマンションが立ち並ぶ印西中央駅の周辺
物流センター
印西中央駅にほど近い場所に立てられた物流センター

Googleのデータセンター
建設途中のGoogleのデータセンターとみられる建物
目白押し
物流センターの件地目も目白押し

(2022/7/8)
四街道市(よつかいどうし)
地図
四つの街道に繋がるまち
 四街道市は千葉県の中北部の下総台地の南に位置し、太平洋気候のため夏は比較的高温で、冬は降水量が少ない地域です。市の北部は平坦な台地で南部は起伏が多く、古くから低地では稲作、台地上では畑作が盛んに行われてきました。
 「四街道」の由来になったとされる四街道十字路には「成田山道」「千葉町道」「東金道」「船橋道」と彫ってある道標があり、その道標を中心に街道が延びている事から「四つ角」が変化して「四街道」と呼ばれるようになったとされています。
 千葉市内に隣接し東京都心へも近い利便性の高い地域のため、JR四街道駅周辺にはマンションや住宅地が立ち並び、首都圏のベッドタウンとして発展しました。1981年(昭和56年)の国勢調査で人口が約6万人と、市政規定人口の5万人を超えたため、1981年(昭和56年)に市制が施行されました。
 市の東部には農地が広がり、大都市周辺で行われる都市部に新鮮な農産物を周年的に供給する「近郊農業」が行われ、各種野菜のほか梨や落花生が特産になっています。また、市の北部には四街道工業団地があります。
 四街道市への鉄道のアクセスはJR東日本の総武本線が横断しており、市内には四街道駅と物井駅の2駅があります。高速道路は、東日本自動車道が北部を横断し、四街道インターチェンジがあります。また、国道は51号が市の南部を横断しています。
四街道の道標
市名の由来となった四街道の道標
四街道駅(北口)
四街道駅(北口)

四街道工業団地
四街道工業団地
四街道市役所
四街道市役所

かつて軍都として栄えたまち
 現在の四街道市はかつて鎌倉時代から室町時代には「千葉氏」の所領で、その後江戸時代に入ってからは佐倉藩の領地となりました。
 長崎と共に蘭学が盛んであった佐倉藩は、西洋式の高島流砲術へ切り替えるにあたり砲術射的の標的を新たに築造し、西洋砲術練習を明治初期まで行っていました。その後明治政府は、1873年(明治6年)に陸軍指導者としてフランス陸軍ジョルジュ・ルボン砲兵大尉を招き、大尉の指導により「大土手山」を改築し、1886年(明治19年)には陸軍砲兵射的学校も設立されました。このため標的だった大土手山は「ルボン山」とも呼ばれるようになりました。また、四街道は砲兵学校が造られたことにより「軍都」として発展を遂げていき、1890年(明治23年)には市川~佐倉間に開通した千葉県初の私鉄「総武鉄道」の四街道駅、物井駅が造られました。
 旧陸軍施設の跡地は太平洋戦争終戦後、現在の「陸上自衛隊下志津駐屯地」以外は宅地・行政・文教・商業施設などに転換されました。
 1985年(昭和60年)には千葉市や都心に通勤する人々に向けた住宅地としてめいわ地区の開発がスタートし、街のシンボルを作ろうと1992年(平成4年)に初めて作られたのが「ガス灯」で、228基が設置されその数は日本一になりましたが、2016年(平成28年)にはその面影を残しつつLED化されています。
陸軍砲兵学校跡の碑
陸軍砲兵学校跡の碑
ルボン山
大土手山(ルボン山)

ガス灯LED化
日本一だったガス灯は現在LED化されている
LED化された元ガス灯
めいわ地区の住宅地沿いに並ぶLED化された元ガス灯

市民自らも四街道市を発信する「まち撮り四街道」
 2014年(平成26年)からスタートした四街道市の「総合計画」では子育て世代の流入を推進し、人口増加とバランスのとれた人口構成の確保を目指し「四街道 未来創造プロジェクト」を展開しています。その重点プロジェクトのひとつとして「シティセールスプロジェクト」を推進すると共に、2022年(令和4年)3月にはシティセールスロゴマークを作成し、今後の展開に活用していくことになっています。
 また四街道市は千葉市、市原市と連携し、子ども・子育て支援環境の整備等について3市で検討を行い、新たな連携の実現に向けた協議を進めていくことになっています。
 一方、四街道市民がかかわる地域づくりを推進する「みんなで地域づくり」を進めるため、「シティセールス推進課」を設置し、2015年(平成27年)から2017年(平成29年)までは市民自らが発信するシティセールスプロジェクト「ドラマチック四街道」を展開しました。
 更に2022年(令和4年)からは「まち撮り四街道」として市民活動などまちで活躍されている方にスポットを当てて応援するとともに、残していきたい風景を発信していくそうです。
 このようにシティプロモーションを展開していった成果として東洋経済社の「都市データパック」編集部が調査した「住みよさランキング」では、コロナ禍が後押しした要因もあるかもしれませんが全国で181位、千葉県内では8位にランキングされています。
 都心に近い四街道市は、市民参加が参加するシティプロモーションで「住みよさランキング」が更にアップしていくことでしょう。
みんなで地域づくりセンター
文化センターの中にある「みんなで地域づくりセンター」
駅周辺
多くの住宅を見ることができる駅周辺

(2022/6/10)
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