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チバビズ探訪 バックナンバー(85~96)
Vol.90 【ちばのへり】「谷津遊園」が残した物
「谷津遊園」が残した物
人々の憩いの場所「谷津遊園」
 習志野市の南西部、船橋市に隣接した谷津地区に隣接しているのが「谷津バラ園」そして「谷津干潟公園」です。このエリアは大正時代に「塩田地」として使われていた場所で、後に国の「塩業試験場」へと転用されていました。その後「京成電鉄」はこの一帯を「娯楽施設」に転用するため、1925年(大正14年)に「京成遊園地」を開業し、その後名称が「谷津遊園」に改称され、1957年(昭和32年)には「谷津遊園」に隣接して「谷津遊園バラ園」も開園しました。
 この「谷津遊園」は1960年代後半に東京湾が埋め立てられる前までは、「潮干狩り」や「海水浴」ができる遊園地としても人気がありましたが、1982年(昭和57年)当時、母体の「京成電鉄」の経営が悪化した事、更に「東京ディズニーランド」への経営参画などの理由によって「谷津遊園」は閉園する事になりました。
 「谷津遊園」の跡地の一部は、その後都市再生機構(現在)が開発した大規模な団地へと変化しまし、「谷津遊園バラ園」は1965年(昭和40年)に「京葉道路」の工事に伴って現在の場所に移転になりました。その後1982年(昭和57年)の「谷津遊園」閉園に伴ってバラ園も閉鎖されましたが、市民からの要望を受けて1988年(昭和63年)に「都市公園」としての「習志野市市営」の「谷津バラ園」が誕生しました。
谷津バラ園
谷津公園に隣接した谷津バラ園
バラ園の園内には数多くの種類のバラを見る事ができる

今につながる「谷津遊園」
 かつての「谷津遊園」はレジャー施設として愛されてきただけでなく、発祥の地、そして文化財として現代に続く物にもかかわりを持っています。
 1934年(昭和9年)に開催された日米野球で、来日するアメリカ選抜チームに対抗するため、「東京六大学」出身者を中心とした全日本チームが結成されました。「谷津遊園」内に作られた「谷津球場」で練習が行われ、その時のチームが後の「東京読売巨人軍」で、当時のチーム運営会社「大日本東京野球倶楽部」の筆頭株主が京成電鉄だった事から、この谷津遊園の跡地に「読売巨人軍発祥の地」の記念碑が建てられています。
 また、現在佐倉市の「山万ユーカリが丘線」で運行されている「新交通システム」のモデル線が作られたのも「谷津遊園」でした。この「新交通システム」は大型のニュータウンなどと鉄道の駅を結ぶ「近距離交通システム」で、「Vehicle Of New Age(新しい時代の乗り物)」略して「VONA(ボナ)」と名付けられ、日本車両製造と三井物産の共同開発で進められました。1972年(昭和47年)に当時の「谷津遊園」にモデル線が営業運行開始され、1982年(昭和57年)に「山万ユーカリが丘線」が開業されました。
 更に「谷津遊園」内にあった「楽天府」は、1899年(明治32年)に「旧勧業銀行本店」として建物で、1926年(大正15年)に「谷津遊園」に移築され、「楽天府」と呼ばれるようになりました。「谷津遊園」の閉園後の1940(昭和15)年に千葉市役所の庁舎となり、1965(昭和40)年に移築・修復され、現在は千葉トヨペット株式会社の本社・中央店として使用され、1997年(平成9年)には国の「登録有形文化財」になっています。
読売巨人軍発祥の地
谷津公園内に作られた「読売巨人軍発祥の地」碑
ユーカリが丘を走る「VONA」

「ラムサール条約登録」の「谷津干潟」
 1960年代から1970年代にかけて千葉県の東京湾沿岸は大規模な埋立てが進められ、内房に広がっていた干潟はどんどん消滅していきました。埋め立てによって海岸線がどんどん消滅していくなか、1982年(昭和57年)に閉園になった「谷津遊園」周辺の谷津干潟は「利根川放水路計画」のため「旧大蔵省」の所有だったため、埋め立て工事を逃れる事が出来ました。
 当時は千葉県も習志野市も干潟部分の埋立てを望んでいたものの、東京湾に飛来する「シギ類」や「チドリ類」「カモ類」などの渡り鳥の生息地になっている事が指摘され、更に保護活動家が重要性を指摘している事や清掃活動が行われ市民もそれを認知していました。1977年(昭和52年)には当時の「環境庁」が国会で「鳥獣保護区」に指定して保全を図りたいとした事で、1980年代前半には千葉県も習志野市も「干潟の保護」に転じました。周囲はマンションや学校、東関東自動車道と京葉道路に囲まれ、東と西側にそれぞれ1本ずつの水路に囲まれ、東京湾と繋がった40ヘクタールに渡る干潟は、1988年(昭和63年)には正式に「鳥獣保護区」に指定されました。
 1971年(昭和46年)に「ラムサール条約」が湿地の保全と賢明な利用を目的に締結され、1980年(昭和55年)に国内第一号の登録湿地となった「釧路湿原」に続いて、「谷津干潟」は1993年(平成5年)に国内7番目の登録地になりました。「谷津干潟」はかつての内房に干潟が続いていたように、水鳥が生息し海水と真水が混ざる「汽水域」のため、餌になる甲殻類の他、海水魚と淡水魚も生息する環境が保護されるようになりました。
 1994年(平成6年)には「谷津干潟然観察センター」が完成し、干潟の保全や渡来する鳥類の観察・記録、来場者の案内、更にボランティアなどの活動拠点になっています。
 このように「谷津遊園」とそのエリアは、かつて東京湾に広がっていた干潟を残し、併せてバラ園や公園など市民の憩いの場を提供し、次世代に繋げる役割を果たしています。
谷津干潟
野鳥類の憩いの場にもなっている谷津干潟
野鳥類の観察ができる谷津干潟然観察センター

(2025/10/10)
Vol.89 【ちばのへり】潮干狩り
潮干狩り
人々の食の宝庫だった干潟
 三方を海で囲まれている千葉県の東京湾には、川から運ばれた土砂が堆積するなどで潮の満潮時には海の中へ、干潮時には露出する砂泥地「干潟」があります。千葉県にある主な干潟は、浦安市、市川市、船橋市、習志野市に跨る「三番瀬」、木更津市にある「盤洲(ばんす)干潟」、富津市の「富津干潟」の三か所が知られています。
 干潟の砂泥にはバクテリアが豊富に存在し、海水に含まれる窒素やリンなどを分解して海水の汚濁を軽減する働きがある他、干潟に付着する藻類も赤潮や青潮の発生を抑制する効果があります。また干潟は遠浅な地形のため、津波や台風の被害を軽減する効果があり、海水の浸水を防ぎ、洪水の際にも水を吸収して被害を軽減する役割も果たします。更に干潟にはアサリやカニ、ハゼなど様々な生物が生息している場所で、それを求めてやって来る鳥などによる食物連鎖が行われ、生態系を支えています。
 更に干潟の恩恵は人の食糧確保の場所としても大切な役割を果たしてきました。砂浜で砂の中に隠れている貝などを獲る、いわゆる「潮干狩り」は古代の昔から手軽に食料を採取できる方法として世界中の砂浜で行われていました。日本全国にある縄文時代の貝塚は約2,400か所といわれ、そのうち約100か所が千葉市内に集中しており、縄文時代には千葉県で盛んに「潮干狩り」が行われていた事を表しています。また、千葉市内で発見された「加曾利貝塚」は日本最大級の貝塚として知られています。
千葉県潮干狩り
「潮干狩り」シーズンには大いに賑わう富津干潟
広大に広がった船橋三番瀬の干潟

消えてしまった内房の潮干狩場
 埋め立てられる前のかつての稲毛海岸や幕張海岸も干潟で、1888年(明治21年)には稲毛海岸に海水浴場が開かれ、その後鉄道が開業すると日帰りの行楽地として賑わうようになりました。春には「潮干狩り」も行われるようになり、昭和40年代には稲毛海岸や幕張海岸には多くの海の家が立ち並び、大型の観光バスなども集まる日帰りの行楽地として春から夏にかけて「潮干狩り」や「海水浴」目当てに東京方面からやってくる多くの観光客で賑わっていました。
 1968年(昭和43年)には稲毛地区の埋立て事業が着工、続いて1973年(昭和48年)に幕張地区の埋立て事業が着工し、「潮干狩り」の姿は消えてしまいました。
 一方、千葉県の東側にある「九十九里浜」は「ハマグリ」が有名で、66kmに渡る砂浜が続いているので「潮干狩り」が可能ですが、海岸に入る事は出来るものの、ハマグリなどの貝類を獲る事は禁止されています。それは漁業協同組合が貝類資源の保護のために稚貝を撒いている事や、潮干狩りによる貝類の生息量や成長への影響を考慮し、漁業権の存在と貝類資源の保護があるからです。従って、有料とはいえ潮干狩りを楽しめるのは千葉県の西側、内房の「潮干狩り場」になっている場所に限られます。
幕張海岸
潮干狩りで賑わう幕張海岸(昭和40年代)
広大な砂浜が広がる九十九里浜

今でも人気の内房の潮干狩り場
 日本の「潮干狩りシーズン」は春から初夏にかけてが一般的で、ゴールデンウイークのレジャーのひとつとして楽しまれています。「潮干狩りシーズン」が春から初夏にかけての「大潮」の時期だからです。「大潮」とは潮の「干満の差」が大きい時の事で、月と太陽がほぼ一直線に並ぶ「新月」や「満月」の頃は海水に及ぼす引力が大きくなるため、満潮はより高くなり、干潮もより低くなります。1年の中では春分と秋分の時期が最大で、春の干潮の時間帯が昼間になるため、でアサリが獲れやすい時期だという事で、この時期に行われるようになりました。
 日本は海岸が国有財産であるため、海岸に入ること自体で料金を取られる事は出来ませんが、「潮干狩り」は「漁協法」や都道府県の条例で定めた「漁業調整規則」が適用されるため有料になっています。 現在千葉県で「潮干狩り」が出来る「潮干狩り場」は「三番瀬海浜公園」、木更津市には「江川海岸」「牛込海岸」「木更津海岸」「久津間海岸」と「金田みたて海岸」の5箇所が、富津市には「富津海岸」の一か所と、合計7か所の「潮干狩り場」があり、4月から6月頃まで楽しむ事が出来ます。
 また「千葉ポートタワー」のある「千葉ポートパーク」の「ビーチプラザ」や「幕張海浜公園」などは正式な「潮干狩り場」になっていないので、収穫量は確保できないものの、「貝拾い」という名目で、無料で楽しむ事が出来ます。
 残念な事に2007年(平成19年)頃からは、温暖化による海水温の変化や、アサリを捕食するツメタガイ、アカエイ、渡り鳥の食害などによって生育が悪化して漁獲量が激減してしまいました。古くから親しまれている「潮干狩り」を絶やさないようにしたいものです。
船橋三番瀬公園
潮干狩りが行われる船橋三番瀬公園
無料で貝拾いが楽しめる「ポートパーク」

(2025/9/10)
Vol.88 【ちばのへり】漁師食堂
漁師食堂
「水産県」千葉
 海に囲まれた千葉県には「年間水揚げ量」全国1、2を争う銚子漁港があり、「水産県」とも呼ばれている水産が盛んな県です。銚子の沖合には水深200メートルの大陸棚が広がり、北から流れてくる親潮(寒流)と南から流れてくる黒潮(暖流)が交錯する場所になっており、更に利根川から流れてくる有機物を含んだ真水の流入も加わり、好漁場になっています。
 銚子港には魚群を網で囲い込んで捕獲する「巻網漁業」や「底曳網漁業」などの沿岸漁業を行う漁船をはじめ、全国からやってくる沖合漁業を行っている漁船も集結してきます。そのため、四季を通じて旬な魚が豊富に水揚げされる事から、漁港周辺には大規模な加工工場も建設され、「一大水産基地」が形成されています。
 他にも九十九里では「ハマグリ」が、勝浦漁港では全国で上位の水揚げ高を誇る「カツオ」、更に大原漁港は「イセエビ」の水揚げ高が全国で上位に位置しています。
 一方、内房地域も昔から様々な魚が獲れる魚介の宝庫とされており、ほかにも木更津や富津などは潮干狩りで知られ「アサリ」が、加えて富津や木更津は江戸時代から続く「江戸前ノリ」産地になっています。また、一時期話題になった甲殻類を食べた事で体が黄金色に輝く「黄金アジ」は内房の名物として、提供する店には行列ができる程でした。最近では寿司ネタで使われる「コハダ」は、成長段階で呼び名が変わる出世魚で、最近では体長が15cm以上に育った「コノシロ」が豊漁になっているそうです。
 また、十数年前から東京湾で漁獲されるようになった外来種の「ホンビノス貝」は船橋の名産として知られるようになりました。太平洋と東京湾に囲まれた千葉県は、昔から豊富な魚介類が集まる場所として知られています。
大原漁港
銚子漁港周辺には大規模な加工施設も立ち並ぶ
大原漁港

千葉の漁協食堂の草分け「ばんや」
 内房・外房共に沿岸には新鮮な魚介類を提供する数多くの食堂や、貝類を自分で焼いて食べる「浜焼き」を提供する店舗が数多く立ち並び、マスコミでも頻繁に取り上げられ、地元はもちろんの事、観光の目玉としても多くの観光客が訪れています。
 2025年(令和7年)現在、千葉県には「沿岸漁業協同組合」が23組合、河川や湖沼など「内水面」における「内水面漁業協同組合」は18組合と、併せて41もの漁業協同組合があります。そのなかでも獲れたての魚を漁業協同組合が直接販売する、いわゆる「直売」を行っている組合の他に食堂を直接経営している「漁協直営食堂」が9件までに増えています。
 県内の「漁協直営食堂」で一番知られているのは、保田漁協が経営する(現在は独立した株式会社)「ばんや」です。保田漁協が直営食堂に乗り出したきっかけは、東京湾が整備され巨大な船舶が多くなり安全に操業が難しくなってきた事と地球温暖化などで漁獲高が減少している事など漁業を取り巻く環境の変化が要因となっています。このままでは組合経営が困難になるという危機感から1995年(平成7年)に「魚食普及食堂」というテーマを掲げ、漁協直営食堂「ばんや」を開業しました。1997年(平成9年)に開通した「東京湾アクアライン」開通なども追い風となって、週末のランチタイムは行列になるほど大人気になりました。そのおかげで新館の建設や2003年(平成15年)には炭酸泉の温泉「ばんやの湯」をオープン、更に宿泊施設まで「漁協食堂」を超えるまでに拡大・発展しています。
ばんや
漁協直営の先駆けともいえる「ばんや」
ばんやの湯

「水産県千葉」のプライドで観光客誘致にも
 外房側には銚子漁協が経営する「万祝(まいわい)」、九十九里には名産の「ハマグリ」を使ったカレーを提供する「はまぐりキッチン」、「イセエビ」や「タコ」で知られている大原漁港には「いさばや」があります。また、館山市の相浜漁港には相浜漁協直営の「相浜亭」の他に、海鮮バーベキューを楽しめる「浜のいそっぴ」も併設しています。
 一方、内房には南房総市の岩井冨浦漁協直営の「おさかな倶楽部」が、鋸南町の勝山漁協では「なぶら」が、潮干狩り場になっている金田みたて漁港には金田漁協直営の「アサリ」を使った料理を提供する食堂「浜っ子」を経営しています。
 更に「内面漁協」では、手賀沼漁協が経営する施設「手賀沼フィッシングセンター」では、釣堀とドッグランの機能を持ち、その場で釣った「ニジマス」をその場で焼いて食べる事が出来るようになっています。また、同じ敷地内には「キングフィッシャーガーデン」が併設され、バーベキューやキャンプキャンプを楽しめる施設があり、施設内で一日たのしむ事が出来るようになっています。
 新鮮・獲れたての魚貝が売りの「漁協直営食堂」ですが、魚介類の消費量減少、漁業環境の変化、漁師の高齢化や担い手の減少など漁業環境は厳しい局面を迎え、付加価値向上の目的と併せて、千葉県内でも様々な魚種の養殖事業が始まっています。内房の勝山漁協では「ハマチ」「マダイ」「シマアジ」などの養殖が行われており、他にも冨浦漁港の沖合では、民間の会社が「カイワリ」という魚と「真アジ」を掛け合わせた養殖魚を「夢あじ」という名前で販売が始まったようです。更に陸上での「サーモン」の養殖や以前チバビズドットコムでも紹介した「バナメイエビ」の養殖までが行われるようになりました。
 内面漁業でも「フナ」「コイ」「モツゴ」などに加え、印旛沼漁協では「ウナギ」や「ナマズ」の養殖が行われ、「水産センター」では、養殖した「ウナギ」や「ナマズ」は直営のレストランで提供されています。
 「漁協食堂」では「養殖魚」も含めて更に新鮮で豊富な魚を提供できるようになり、それを求めてやってくる観光客に「水産県千葉」のプライドを元に新鮮な魚を提供していくでしょう。
「万祝」「いさばや」
銚子漁協直営の食堂「万祝」
夷隅東部漁協直営の食堂「いさばや」

「相浜亭」「浜のいそっぴ」
相浜漁協直営の「相浜亭」
相浜漁協直営の海鮮バーベキューの食堂「浜のいそっぴ」

「なぶら」「手賀沼フィッシングセンター」
勝山漁協直営の食堂「なぶら」
手賀沼漁業協同組合の「手賀沼フィッシングセンター」

「水産センター」
印旛沼漁協直営のレストラン「水産センター」
「水産センター」に隣接する直売所

勝山漁協
「浮島」の前の海域で勝山漁協が養殖を行っている
バナメイエビの陸上養殖が行われているビニールハウス

(2025/7/10)
Vol.87 【ちばのへり】上陸の地
上陸の地
神々が上陸した地
 海と川に囲まれた千葉県には神話から近代まで様々な「上陸の地」が存在します。神話の世界では様々な神様がこの千葉県に上陸したとされ、石碑なども置かれています。
 東国三社として知られ、全国に約400社ある総本社「香取神宮」の主祀神「経津主神(ふつぬしのかみ)」は、神話の「国譲り」に登場する神様です。「天照大神(あまてらすおおかみ)」が「大国主神(おおくにぬしのかみ)」から日本の支配権を譲り受けたという「国譲り」神話で、「天照大神」から遣わされた「経津主神」が船で海を渡ってやって来て上陸した場所が利根川鳥居河岸にある「津宮浜鳥居(つみやはまとりい)」の場所とされています。かつてはこの鳥居から続く道が香取神宮の「表参道」とされており、石碑はないもののこの鳥居が「上陸の地」を表しています。十二年に一度行われる式年神幸祭では、ここから御神輿を乗せた御座船が利根川を遡ります。
 また、千葉県にも「日本武尊(やまとたけるのみこと)」神話がいくつかありますが、なかでも「木更津」という地名の元になったという神話があります。木更津市に伝わる「きみさらず伝説」によると、「日本武尊」と妃の「弟橘媛(おとたちばなひめ)」が東国征伐に向かう航海中、浦賀水道まで差し掛かった時に海神の起こした波で海が大荒れになりました。死を覚悟した二人でしたが、海神の怒りを鎮めるために「弟橘媛」が自らを海に捧げた事で、海神の怒りは静まり「日本武尊」は無事木更津に上陸する事が出来ましたが、「日本武尊」は妃の事を思ってこの地を離れる事が出来なかったということです。「日本武尊」が妃を思って詠んだ歌が「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」という歌で、この「君去らず」が転じて「木更津」になったといわれています。海を見下ろせる高台にある「太田山公園」には、「きみさらずタワー」という展望台が設置され、展望台の上には「日本武尊」と「弟橘媛」の像が置かれています。
 更に「天富命(あめのとみのみこと)」と大和朝廷の宮廷祭祀や祭具の製作、宮殿造営などを担っていた「忌部氏(いんべうじ)」祖となった「由布津主命(ゆふつぬしのみこと)」が房総半島の南「安房」地方を開拓したとされています。また、上陸したとされる南房総市白浜には「下立松神社」建てられ、「由布津主命」の祖父で日本の弓矢の創始神、そして製紙の祖神、開運・殖産の神とされている「天日鷲命(あまのひわしのみこと)」が祀られています。
香取神宮
利根川沿いに建てられた香取神宮の「津宮浜鳥居」
利根川から続く香取神宮のかつての表参道

きみさらずタワー
日本武尊と弟橘媛の像がある「きみさらずタワー」
由布津主命が祀られている下立松神社

歴史に大きな足跡を残した上陸の地
 桓武平氏の一族だった「平将門」が関東を独立国家にして自らは「新皇」を名乗り935年(承平5年)~940年(天慶3年)に起こした反乱「平将門の乱」で、社会には不安と混乱が発生しました。それを鎮める祈祷のため、真言宗の僧侶「寛朝(かんちょう)」が京都にあった「不動明王像」を関東へ向けて運び出しました。上陸したのが現在の横芝光町にある「尾垂浜(おだれはま)」で、21日間の祈願によって「平将門の乱」が平定されました。この「不動明王像」は、成田山新勝寺の本尊となり、今では首都圏エリアの初詣参拝客数2位を誇るまでになっています。「不動明王像」が上陸した「尾垂浜(おだれはま)」には、1960年(昭和35年)には記念碑が建てられ、1998年(平成10年)には波を打ち砕く不動明王の像「波切不動尊像」が設置されました。
 平安時代後期には、当時勢力を握っていた平氏を打倒すべく立ち上がった源頼朝が1180-年(治承4年)に「石橋山の戦い」に敗れ、現在の南房総「安房国」に逃れました。逃れた頼朝が再起しその後初めての武家政権「鎌倉幕府」を成立させた事から、千葉県内にはいくつもの頼朝伝説が残っています。「安房国」に逃れ、千葉に上陸した場所が鋸南町の「竜島海岸」とされており、「源頼朝上陸の地」という記念碑が建てられています。
 南総里見八犬伝でも描かれている「里見氏」は現在の新田氏一族から分家し、現在の群馬県にあたる上野国を拠点としていた里見氏は、その後全国へと広がっていきました。安房国を支配していた里見氏の初代とされる里見義実は、室町幕府に対して反乱を起こした「結城合戦」で結城氏に味方し敗れて三浦半島から安房国の野島崎に上陸したのが1445年(文安2年)とされています。義実は白浜に居城を構え、当時安房国を支配していた安西氏、神余氏、丸氏、東條氏の四つの豪族を打ち破り、房総里見氏の礎を築きました。野島崎には「里見義実上陸の地」の記念碑が建てられています。
波切不動尊像
成田山の本尊が上陸した場所に建てられた「波切不動尊像」
鋸南町竜島に建てられた源頼朝上陸の地碑

源頼朝上陸の地碑
館山市洲崎にあるもうひとつの源頼朝上陸の地碑
野島崎に建てられている「里見義実」上陸の地

命を救った上陸の地
 時には荒波が荒れ狂う太平洋に面した房総半島には、船で航海していた人達が嵐で遭難した人々を救ったという美談も残っています。
 1275年(健治元年)に公卿だった藤原兼貞が3隻の船で航海中に台風に出会い、現在のいすみ市にある「岩船海岸」に漂着し、船中で亡くなった12人を除き、地元の漁師が生き延びた63人を助けだしました。台風が通り過ぎ波風が静まると、奇瑞(めでたいふしぎなしるし)が現れ、乗ってきた船が大きな岩に変わってしまいました。この不思議な出来事が起きた事から、亡くなった12人と助かった63人を合わせた75人を「神」として祀るようになり、岩に変わった船を「御船岩」と呼び、一緒に流れ着いた地蔵尊を「岩船地蔵尊」として祀って、船が漂着した場所は「七十五座漂着の地」として記念碑が建てられています。
 遭難した人を救った話は、日本人だけではありませんでした。1609年(慶長14年)にドン・ロドリゴ・デ・ビデロ・イ・ベーラコスがフィリピン諸島長官の任期を終え、マニラからメキシコに帰還する途中に暴風雨に遭い、現在の御宿町岩和田(いわわだ)海岸沖で座礁しました。317名いた乗組員は当時の村民達によって救助され、当時の大多喜城主「本多忠朝」は彼らを岩和田村の大宮寺に滞在させて、食料や衣料を与え、ロドリゴを大多喜城に招きました。更にその後ロドリゴは徳川家康・秀忠に謁見して、翌年は「三浦按針(みうらあんじん)=ウィリアム・アダムス」に建造させた大型帆船で浦賀からメキシコに送還させました。この美談によってこの三つの国の間に友好関係が生まれ、1928年(昭和3年)にロドリゴが救助された付近の海を見渡せる高台に「日・西・墨三国交通発祥記念之碑」が建てられました。
 美談ではなく鎖国中に千葉に外国人が上陸したという話は、他にも残されています。1739年(元文4年)にオホーツク探検事業で航海していたロシアの「シュパンベルグ」が率いる船団の中で「ヴァリントン大尉が指揮するガヴリエル号の乗組員数名が、ボートで現在の鴨川市天津に上陸しました。この出来事は鎖国下の日本で最初に上陸したロシア人となって現在は鴨川市指定の史跡として、記念碑が建てられています。
 かつては物流の動脈として機能していた川や海は今でも物流の動脈として機能するとともに「上陸の地」にもなっていましたが、現在は千葉県には空も加わって空港も「上陸の地」の候補になりました。「上陸の地」は必ずしも良い事ではありません。1945年(昭和20年)に敗戦後の連合軍の上陸地点となったのも現在館山市にある海上自衛隊館山航空基地がある場所でした。しかし、歴史の舞台の中で「上陸の地」によって何かしらの変化に繋がっているのでしょう。これからも千葉県に「良い事」の「上陸の地」として新たな歴史が生まれる事に期待したいと思います。
太海港
いすみ市岩船にある七十五座漂着の地
岩船地蔵尊

太海港
いすみ市の岩船海岸
日・西・墨三国交通発祥記念之碑

(2025/6/10)
Vol.86 【ちばのへり】太海
太海
かつお節が名産の町
 鴨川市の市街地から南に進んだ「貝渚」に面した太平洋上には、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波涛根島・猪貝島・海獺島の7つの島が並び、日本三景の「松島」をイメージさせるところから「鴨川松島」と名付けられ、新日本百景にも選ばれている名所があります。
 更に南へと進むと今も漁村の風情を残す太海地区があります。かつて「波太(なぶと)」と呼ばれていた「太海」地区は、1889年(明治22年)に町村制施行で発足した「太海村」からはじまりました。「太海」という名前は、近隣の村と合併する際に「太平海(太平洋)」に面した村である事、更に「海産ノ豊太(海産物の豊かさ)」を願って名付けられました。1955年(昭和30年)には江見町・曽呂村と合併し、新設された江見町の一部になり、1971年(昭和46年)に鴨川市の一部になりました。
 この地区にある「浜波太漁港」は小さな漁港ではあるものの好漁場を持つ漁港として栄えていました。磯はアワビの漁場、イワシやカツオ漁が盛んで、明治時代にはかつお節の生産が行われ、「太海節」と呼ばれるほど有名になりました。今もかつお節の製造が行われており、名産品になっています。
 海に面した斜面には家々が隣接し、狭い路地には階段が続き、迷路のように巡っている不思議な空間で、漫画家「つげ義春」の代表作のひとつ「ねじ式」のモデルになったといわれています。
鴨川松島
鴨川松島
狭い路地が多く漁村の雰囲気を残す太海地区

頼朝に与えられた島
 太海地区の沖200mほど先に周囲4kmの千葉県で最も大きな有人島「仁右衛門島」があります。この島は「平井家」という個人が所有する島ですが、千葉県指定の名勝、更に新日本百景にもなった観光地として公開されています。島には「太海漁港」にある乗船場から専用の手漕ぎの渡し船で行くことができます。
 1180年(治承4年)に起きた石橋山の戦いで敗れ、わずかな兵を引き連れ「波太」の「仁右衛門島」に上陸した「源頼朝」を島主の「仁右衛門」が厚くもてなし再挙を助けた事で、頼朝から「平野」の姓と島周辺の漁業権を与えたとされています。
 島には頼朝が夜襲を避けて潜伏した洞窟「頼朝の隠れ穴」や小湊で生まれた「日蓮聖人」が清澄山の清澄寺で修業中にこの島の「神楽岩」で朝日を拝んだとされる「日蓮聖人霊地」などがあります。
 また、数多くの「歌碑」と「句碑」、更に現上皇陛下をはじめ皇族も見学に訪れ、記念碑も建てられています。島には四季を通じて花が絶えることがなく、イソギク、ハマカンゾウなどの海浜植物の他に金銀針茄子(きんぎんはりなす)という珍しい植物も自生しています。
 島主「平野家」の家は元々海沿いに建てられていましたが、1704年(宝永元年)に発生した「元禄地震」の影響で島の中央に建て直され、今も残る築300年以上の建物として観光客に公開しています。
仁右衛門島
仁右衛門島
仁右衛門島へは専用の渡し船で上陸する

画家に愛された波太海岸(なぶとかいがん)
 1888年(明治21年)に写生旅行をしていた洋画家「浅井忠」が、波太海岸(なぶとかいがん)を訪れ、鉛筆で描いたスケッチ「房州波太村」によって波太海岸が景勝地として知られるきっかけになりました。それによって「浅井忠」の流れを汲む「太平洋画会」の画家たちが「写生地」と選んだ事で、「波太海岸」は景勝地として知られ、多くの洋画家が訪れるようになりました。波太海岸にある旅館「江澤館」は、元々は船大工で明治末期から画家を宿泊させるようになり、1913年(大正2年)に旅館業に転業し、多くの洋画家が宿泊所として利用されています。安井曽太郎の「外房風景」は「江澤館」の4階で描かれた代表作として知られています。館内には画家が寄贈してくれた作品が展示され、「画家ゆかりの宿」として、今も愛されています。
 また、太平洋に面した太海は釣り場としても大人気で、磯釣りスポットになっており、鴨川市に合併する前の1965年(昭和40年)に江見町町営の施設として「太海フラワー磯釣りセンター」が開園しました。「手ぶらでたのしむ本格海釣り体験」をコンセプトに、釣り道具を持参せずに本格的な海釣りを楽しめる場所になっています。年間を通じてマダイやイシダイ、カサゴ、アカハタ、メジナなど多くの魚種が放流され、太平洋に面した景色を背景に実際に海釣りをしているように気軽に「釣り体験」ができる施設が人気になっています。
 太海はかつて日本初の武家政権を誕生させた歴史の舞台、そして豊富な魚が手に入る良好な漁場として栄え、景勝地として画家に愛されてきました。地域の歴史の面影を今も残している太海は、これからも歴史に触れる場所として続いていくでしょう。
太海港
画家達が滞在した画家ゆかりの宿@「江澤館」
漁村の雰囲気が漂う太海港

(2025/5/10)
 
Vol.85 【ちばのへり】リアス式海岸
リアス式海岸が勝浦にもたらす恩恵
温暖 海の幸 観光 景観
プレートが生み出した勝浦のリアス式海岸
 「リアス式海岸(リアス海岸)」とは、河川などが削った深い谷間が海面の上昇によって陸地が水没して出来た地形で、入り江や湾が繰り返しています。そのため山の谷間に位置する湾の入り口の水深は一般的な入り江よりも深く、奥に行くにしたがって幅が狭く水深が浅くなっています。
 また、湾の周りは小高い山に囲まれ奥が浜辺になるため、風の影響を受けにくく波が穏やかで人が住みやすい条件が整っています。更に浜辺から少し離れるだけで深度が深いので船を係留しやすいため、漁港を作るにも最適な地形だと言えます。日本でリアス式海岸としてよく知られているのは、東北地方の「三陸海岸」三重県の「伊勢志摩」福井県の「若狭海岸」などがあります。
 千葉県の沖合は「太平洋プレート」と「フィリピン海プレート」が「ユーラシアプレート」に沈み込む三つのプレートが重なる世界でも珍しい地域です。このため1703年(元禄16年)の「元禄地震」や1923年(大正12年)の「関東大震災」など過去に発生したプレート沿いに発生する大地震の結果、南房総では地殻が隆起して新しい土地が生まれています。このようにプレートによる地殻変動が大きいため勝浦湾の東西に広がる地域にはリアス式海岸が誕生し、海岸から少し内陸に入った場所には「房総丘陵」が広がる地形になっています。
三つのプレート
三つのプレートの沈み込みが見える千倉町の屏風岩
勝浦のリアス式海岸

リアス式海岸がもたらす日本三大朝市
 リアス式海岸の勝浦湾は、奈留加海(なるかみのうみ)と呼ばれた所と伝えられ、転じて鳴鹿湾(なるかわん)と呼ばれるようになり、鎌倉時代後期に書かれた和歌では三日月の光が勝浦湾の底に届く美しい景色を詠った歌があった事から「三日月湾」とも呼ばれていました。このように美しい景色は、三つのプレートの活動によって生み出されていました。
勝浦湾の東側にある八幡岬の突端にある「平島」は、元は「富貴島」という島で現在勝浦市街にある「遠見岬神社」が元々あった所で、「元禄地震」によって海没してしまい、神社は現在の場所に移設され、今は鳥居だけが残されています。
 また、勝浦湾の西側にせり出す「明神岬」は、複雑な自然の造形に惹かれた文人墨客などが訪れる場所でした。大正時代初期にはこの風光明媚な環境を生かし、別荘地にする計画が浮上し、「理想郷」と呼ぶようになった事から「鵜原理想郷」と呼ばれるようになりました。残念ながら別荘地になる計画は実現しなかったものの、現在は気軽に回れる1周2.3km程のハイキングコースになっており、多くの観光客が訪れその景観を楽しんでいます。
 勝浦のリアス式海岸は、美しい景色の他に食にも恩恵を与えてくれています。周知の通り勝浦市は12の漁港を有し、水揚げ高も県内トップクラスで、千葉屈指の漁業の町でもあります。水揚げされる多くの魚のなかでもカツオの水揚げ高は、2024年(令和6年)8月時点で1位の気仙沼港が19,979tでそれに次いで勝浦が5,086tと全国屈指の水揚げ高を誇っています。
 また、リアス式海岸がもたらす食の恵みのおかげで、漁港周辺には430年続く「勝浦朝市」が毎日開かれています。朝市が始まったのは1591年(天正19年)と言われており、当時の勝浦城主「植村土佐守泰忠(うえむらとさのかみやすただ)」が漁業と農業の奨励とともに、農・水産物交換の場として開設したものとされ「日本三大朝市」のひとつになっています。現在の朝市は若手の出店者が中心となって、フリーペーパー「あさナム。」の発刊や、平日限定のワークショップなども行われるようになりました。
鵜原理想郷
かつて富崎神社があった平島
「鵜原理想郷」と呼ばれている明神岬

勝浦の朝市
勝浦の朝市
勝浦漁港

今も昔もリゾートと観光はリアス式海岸の恵み
 勝浦が夏涼しいのはリアス式海岸になっている地形のため、海風の影響で水温が低い深い所の海水が海面に上がってきて海面の水温が低いためだといわれています。気象庁が発表した2024年(令和6年)の8月の平均気温は東京が29.0℃で勝浦市は25.9℃、一方最高気温も東京が31.3℃に対して勝浦市は29℃と30℃を越えていません。更に過去のデータをみても、勝浦市では観測が始まった1906年(明治39年)以来35℃を越える猛暑日を記録した事は1度もなく、明らかに東京よりも涼しい事が分かります。また冬も1月の平均気温で比較すると、東京は5.4℃に対して勝浦は6.8℃と冬は東京よりも暖かいといえます。昨今は温暖化の影響で猛暑が続いていますが、勝浦は真夏の気温が30℃を越えない事、また冬の気温も東京より暖かい事などで、かつて「鵜原理想郷」が理想の別荘地を目指したように、今は別荘や移住地として注目が集まっています。
 また、元々海女や漁師のために冷えた体を温めるメニューとして作られた「勝浦タンタンメン」は町おこしのために開催されているB級グルメのイベント「B-1グランプリ」で2015年(平成27年)の第10回大会でグランプリを獲得し、全国的に知られる事になりました。「勝浦タンタンメン船団」に加入している正規の勝浦タンタンメンを出す店舗は、地元客を始め「タンタンメン」を求めてやってきた観光客で行列が出来る程人気になっています。
 市内の海域公園エリアには1980年(昭和55年)に房総の海中景観を見えるようにするため、「海中展望塔」が建設され、更に1999年(平成11年)3月に千葉県中央博物館分館として「海の博物館」が作られて観光客を集めていましたが、勝浦市は2020年(令和2年)に新たな観光客を迎えるため、勝浦市はレストランにスパを併設した官民共同の施設「edén」をオープンし、新たな観光客の取り込みを図っています。
 このように三つのプレートが生み出した勝浦のリアス式海岸は、気候、景色、食材と豊富な恵みをもたらし、勝浦はそれを生かして移住者や観光客を更に集めていくことでしょう。
房総丘陵
房総丘陵に開発された別荘地
観光協会内にある勝浦タンタンメン船団企業組合

(2025/4/10)
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